作家の川端裕人さん、いしいしんじさん、詩人の蜂飼耳さんの書評の全文をご紹介します。
「たんぽぽのお酒」を初読したのは二十五年ほと前のこと。まだ十代だったぼくは、主人公のダグラス・スポールディングに心を寄せて、去りゆくこの時間を逃したくないという焦燥にとらわれた。ところが、成人してから再読すると、印象がかなり違う。物語に描かれる事々が遠くに感じられ、自分が置き去ってきたものの多さを思い知らされる。これがジンセイってやつさと開き直るしかない。かつて自分の分身のように感じたダグは、今や消息不明の古い友人のようだ。
そんなところへ世紀をまたいだ長い手紙が、かの古い友人から届く。それが、本作「さよなら僕の夏」。読み終えた時に心を満たしたのは、「よし、がんばれよ、がんばろうぜ」という素朴な熱。いつかダグを完全に「通りすぎて」しまったぼくは、今ふたたび彼がこちらに近づいてくるのを感じる。ダグが立ち向かう現実はおそらく、ぼくのものとは違って、だから、自分に引きつけるよりも、むしろ肩を並べたいと望む。
前作は数々の印象的なエピソードの積み重ねでできていた。子供たちに自らの体験を生き生きと語たり聞かせる、生ける「タイムマシン」フリーリー大佐、遠い都パリや、華やかなダンスパーティーなど、手の届かない体験を目の前に示して、逆に妻を悲しませるレオ・アウフマンの「幸福マシン」などなど。一方、本作では、不思議な「マシン」は登場しない。
その代わりに、ダグ自身がマシーン(自転車)を駆って、成長のために不可欠な「世界に対する戦い」を仕掛ける。敵として特定されるのは、「教育委員会」の老人たちだ。老人たちが人々を自由に動かすのに使う(とダグが信じる)チェスの駒を盗んだり、時間を司る(とダグが信じる)郡庁舎の大時計を破壊したり、といった戦いは、やがて、敵だったはずの相手の中に自分を見いだす、不思議なプロセスの中で終息する。
ラストシーンでは、老人からあるものが去り、ダグに宿るところが描かれる。それは、生命の連鎖、誕生や成長や老いまで含めて受け入れることでもある。去りゆく夏がたんぽぽのお酒の中に閉じこめられているのを知って、「まだほんとは終わっていないんだ」と安堵した2年前のダグはもういない。
ウェルカム!ダグ! ぼくははじめてきみに会った前後に、「こっち側」に来てしまったけれど、ひどく遅れて今、きみも準備が整った。保証する。ここから先も毎日が冒険だ。
さあ、がんばれ、がんばろう。 川端裕人
『たんぽぽのお酒』ははじめて最後までめくり終えた英語の本だった。高校二年生のとき、交換留学の行き先にアメリカのイリノイ州のスモー ルタウンを選んだ(世界じゅうからどこでも選べた)。イリノイの小さな町の人は大阪という町を知らなかった。僕はそんなものだろうと思った。教会や学校で、レイ・ブラッドベリのことをきくと、小さな町の人は誰もブラッドベリを知らないといった。僕は憤慨し、古本屋をまわったが、本当にブラッドベリのものは一冊もなかった。図書館にもなかった。僕はまちがった町に来ているような気がし、またこの感じは、ブラッドベリの短編にそっくりだと思った。 いしい しんじ
少年たちのひと夏の輝きを壜詰めにしたような名作『たんぽぽのお酒』には、つづきがあった。つまり、後日談。一年後の晩夏の出来事。それが『さよなら僕の夏』だ。作者レイ・ブラッドベリは、当初、この作品を『たんぽぽのお酒』と一体のものとして書いた。そういう意味では、もっとはやく刊行されてもよかったのではないかと思う。
子どもから大人に移り変わっていく微妙であやうい時間を、ブラッドベリは、大胆かつこまやかな目線と語り口で切り取っている。『さよなら僕の夏』は、子どもと大人のあいだに横たわる溝を描いているように見える。だが、じっくり読んでみると、作者が表そうとしたのは、溝そのものというよりも、そんな溝などあるのかどうかという疑問、両者に共通する不安や喜びだということが伝わってくる。とてもよく伝わってくる。
十四歳になるダグラスと弟トム、チャーリーをはじめとする友人たちは、町の大人たちに対抗して、いたずらを仕掛ける。大人になんてなりたくない、という気もちなのだ。ミスター・クォーターメインと少年たちのあいだに、対立の感情がひろがる。それがどんなふうにとけていくのか。本書を読む楽しみは、それを追うことにある。だが、歩み寄りの先に見えてくるのは、和解と安らぎだけではない。
生きて存在することや性の謎が、いっそう深まるかたちで、けれども輝きをもって登場人物たちの前に現れてくるのだ。ブラッドベリは、書くべきことを書いた。児童文学では扱い方に難しさが伴う性について、触れている。人間であるということはどういうことなのか、その根源から目をそらさずに描く。慎重さと愛情とユーモアを取りまぜて。
大人は子どもから教わる。それはつまり、何歳になっても新しく知るべきことは身の周りからなくなりはしないということなのだ。見慣れたことも、日々新しくなる。目線しだいで。『さよなら僕の夏』は、じっくりと語る。生きることには、いつでも次の始まりがあるのだと。 蜂飼 耳
読者の方からの感想も続々届いています!
思えば前作『たんぽぽのお酒』の初版本は誕生祝いに父に買ってもらったのでした。その時は小学生だったけれど、わくわくして読んだことを今でも憶えています。本書もとても良かった!(47歳男性)
87歳にしてブラッドベリが贈ってくれたプレゼント。なぜか涙が止まりません。これは生涯の僕の宝物!思わず予備にもう1冊買い求めてしまいました。(49歳男性)
私も30数年前に『たんぽぽのお酒』を読み、そして今『さよなら僕の夏』を読み終えました。自分の中にダグとクォーターメインが2人ともいてくれることを望んでいます。(62歳男性)
87歳にして新著を出した著者のこの意気軒昂、そして作品の瑞々しさ!すっかり魅了されました。「永遠の少年」の心を持つ著者の分身といえる登場人物と共に、読んでいるこちらも野原を駆け回りました。(44歳男性)
大好きな『たんぽぽのお酒』の続きということで、じっくり大切に読みました。ブラッドベリの文章は慣れないと辛いかもしれませんが、これをきっかけに、もっとたくさんの人に「説明文でない文章による描写」を味わってほしいと思いました。(36歳女性)
1920年、アメリカ、イリノイ州生まれ。少年時代から魔術や芝居、コミックの世界に魅了され、のちにSFや幻想的手法をつかった短篇をやつぎばやに発表。巧みな構成力と素晴らしい想像力によって、一躍SFを文学の方法に高めて注目された。いまやSF文学の第一人者として、その作品のほとんどが翻訳されている。作品に『ハロウィーンがやってきた』『十月はたそがれの国』『火星年代記』『華氏451度』『刺青の男』などがある。