「ジャンジャコモ・フェルトリネッリ・エディトーレ」長くて覚えにくいイタリアの出版社名が私の頭に残っていたのは、ロシア(当時ソ連)のボリス・パステルナークの『ドクトル・ジバゴ』を西側で初めて世に出した社だったからである。そして、その出版社の社主、ジャンジャコモ・フェルトリネッリは、一九七二年に謎の爆死をしたのだった。他殺か自殺か、事故か、未だに解明されていない。
日本の出版物を海外に紹介したい、という思いが高じて、筆者が㈱日本ユニ・エージェンシーを退社、㈲栗田・板東事務所を興し、西独のケルンを本拠に主としてヨーロッパの出版社めぐりをし始めたのが、一九八一年。
ミラノでは「ここが、ジャンジャコモ・フェルトリネッリが度々通ったアンデガリ通りなのだ」などと思いながら、スカラ座の裏道を辿りフェルトリネッリ社のお城のような事務所を訪ねている。お目当てはモニカ・ランディさん。日本の作家の作品が話題になると、すぐ問い合わせを寄越していた人だが、送本しても成約には至らなかった。そもそも、当時はボローニャまでの直行便がなく、ミラノはボローニャ国際児童図書展に行くために必ず通る都市だったため、同社をたびたび訪問してはいた。そして、遂に日本のよしもとばなな作品の出版社となったのだった。
故・須賀敦子さんが、教え子のジョルジオ・アミトラーノ氏に「これを読んでごらんなさい」と手渡したのが『キッチン』で、その虜となったアミトラーノ氏が、すぐさま翻訳をしてフェルトリネッリに持ちこんだのがきっかけだった。モニカさんを訪問したある日、社長のインゲ・フェルトリネッリさんと息子のカルロ・フェルトリネッリ氏に紹介された。インゲさんは、報道写真家として活躍したドイツ出身の人と聞いていた。そのころは、欧米の文芸出版社の文芸書編集者や社長たちを招いて、サロンのようなパーティーを〝お城〟で開いていることで有名だった。
我社の出展するフランクフルト図書展のスタンドでは、著者の写真をパネルにして飾り、海外版になった出版物を本棚に展示している。遠くから、「マイ ドーター、マイ ドーター」と叫ぶような大きな声が聞こえてくる。見ると、写真を指差しながら、近寄ってくるのは、オレンジ色の洋服を着こなしたインゲ・フェルトリネッリさんだった。
『キッチン』、『TUGUMI』、『N・P』……と新刊が出るたびによしもとばなな作品を出版し、スカンノ賞、フェンディッシメ文学賞、マスケラダルジェント賞などをよしもとさんが受賞する度に、フェルトリネッリ社として歓待しているインゲさんにとっては、「娘」のようにいとしい人なのだと察せられた。
二〇〇一年、フランクフルト国際図書展でアメリカのハーコート出版社のスタンドで『フェルトリネッリ』の英語版が並べてあったので、旧知のドレンカ・ウィレンさんに送本を依頼した。「悲しいお話よ」のコメントと共に、その場で手渡され、読み始めると止まらなかった。
インゲさんは、確かにジャンジャコモ・フェルトリネッリ夫人で、カルロの母親ではあるけれども、三番目の夫人で、その後ジャンジャコモは、「フィアンセ」としてシビラという女性を息子に紹介している。しかしそんなことは、実は瑣末なことに過ぎない。
それほどに、ジャンジャコモ・フェルトリネッリの生涯は、波乱に満ち満ちており、スリルがあり過ぎる。ボリス・パステルナークとの一件でさえ、すんなりと行かず、パステルナークがジャンジャコモと同様に信頼するフランスの女性との間で、さまざまな行き違いがあり、悶着がパステルナークの死後も続く。
ジャンジャコモは、イタリア共産党の単なるお金持ちの出版人ではない。彼には、1.反ファシズム、2.経済的、政治的構造が異なる国家同士の共存の追求、3.政治、経済、地理を明確化せずに、第三世界による新しい力を持つ可能性の探求、という課題があった。出版社のほかに図書館、研究所も創設している。
桁違いの資産家に生まれて、学校ではなく家庭教師に教育を受けたジャンジャコモは、同年代の友達がなく、大庭園に雇われた労働者たちが「友人」であり、自分とは全く異なる階層の人たちの世界を知り、共産党への道を歩む。やがて、キューバでは、フィデル・カストロとの交流が生じて、チェ・ゲバラとカストロの思想の影響を受ける。
一九五五年六月に創業したときの出版物は、ラッセル卿の『人口地獄:ナチス戦争犯罪小史』と、ネルーの『自叙伝』であった。一年後には、出版社、流通会社、書店をつなぐ一つの回路が必要と「フェルトリネッリ・リブリ・スパ」を設立し、それが現在全イタリアに及ぶ二〇〇店以上の直営店ネットワークの基礎となる。
その後のフェルトリネッリ社の一九六九年までのリストに、カストロの『エルネスト・チェ・ゲバラへの弔辞』、『毛沢東語録』、ホー・チ・ミン『演説集』、社会人類学者のレヴィ=ストロースや言語学者のヤコブソンの著書、そして文学ではノーベル文学賞受賞者ガブリエル・ガルシア=マルケス(コロンビア)、マリオ・バルガス=リョーサ(ペルー)、ミゲル=アンヘル・アストゥリアス(グァテマラ)をはじめ、カルロス・フエンテス(メキシコ)、エルネスト・サバト(アルゼンチン)とラテンアメリカの作家が多く、アメリカはトム・ウルフ、ジェームズ・ボールドウィンからスリラーシリーズまでと幅広い名前が並ぶ。
本書は、息子による「ジャンジャコモの伝記」に止まらず、当時のヨーロッパの歴史、共産党、ファシスト、ラテンアメリカの革命など、大きな世界潮流に翻弄された人間の軌跡と、それにまつわるドラマがふんだんに折りこまれている。固有名詞の複雑さに悩まされながらも、一気に読み通さずにはおられなかった。
兵庫県出身。商事会社、外資系商社、出版社を経て、著作権代理店、日本ユニ・エージェンシーに勤務。 1981年、日本の著作物を海外出版社に仲介する専門の著作権代理店(有)栗田・板東事務所を設立。ケルンを本拠に3年間欧米出版社を訪問して日本の図書を紹介。 1984年同社を発展的に解消して㈱日本著作権輸出センターを設立し、2009年同社代表取締役社長を退任、現在同社相談役。 著書に『ゆめの宝石箱』(国土社1986年)など。翻訳書に絵本『ゆうびんきょくいんねこ』(ほるぷ出版)など。