第1回
ごらんのとおりの年寄りで、今年(2006年)82歳になりました。
いまどき82歳、まったくありふれた年で珍しくも何ともないのですけれど、年なりに頭も身体もだいぶ弱ってきたようなところがあるので、なるべくきちんと言いたいことが伝えられるように、お話ができますようにと自分で思いながらここに座っております。
私は子育てがとても不得手でした。自分が結核で寝ていたから、子どもはお友達が来ても家で遊べない。お友達とは外で遊びなさいと追いだしていたのですね。私自身、友達同士の交流もなかったし貧しかった。そんな自分がなぜ童話を書くようになったのでしょう。童話は子供の世界です。現実の自分は子どもを育てていながら、子どもの世界との接触がひどく少なかったので、特に子どもの集団を書くことは苦手です。結局、自分が頼りにするところは、ただただ自分の中の子どもしかなかったのです。子どもの心はどうなのだろう、子どもの感覚はと考えるときに、自分自身が小さいとき、どう感じたかということばかりそれだけを頼りにしてきました。
私の子ども時代は戦争の時代です。1924年生まれですので、私が小学校の2年生のときは、満州事変という呼び方をしていた戦争がありました。宣戦布告もない戦争です。その後日華事変と、どんどんどんどん戦争の時代が長く続いていって、子どもの私には戦争はあたりまえであって不思議には思わなかった。しかもその戦争というのは外地での戦争ですね。日本の国に誰かが攻めてきたというのではなく、日本軍が攻めていきやった戦争ですから。でもその時代の子どもは侵略という言葉を知りませんでした。侵略という言葉を知ったのは戦後のことのように思います。
日本軍が戦っているのは外地であり、自分たちが逃げ惑ったこともないし、戦争でおんな子どもがどんな目にあうかということもまったく知らず。教え込まれたところによると、外地での戦争は敵が悪い、子どもはそれを信じていたのです。愚かしいことに、その敵をやっつけて大東亜平和という言い方をした平和をつくり、その国を弟の国とし日本はお兄さんとしてそれを導いていく、そこに大東亜平和を創って、いまはそんなこと誰も信じる人はいません。そんなことをそういうものだと信じて疑わなかった子ども時代があるんです。
「お国のため」という言葉によってたくさんのものを我慢しなくてはならない。自分の本来の心のままに動くのではなく、お国のためにしなければならないことがすごくあるんですね。自分たちの身近な戦争はないけれども、誰ちゃんのお父さんが出征したのよ、誰ちゃんのお父さんは中国へ行ったのよと、そしてそのお父さんは亡くなったのよと、そういう痛みはあるのですけれど、いつも外で戦争は行われていた。それがあたりまえだというそういう時代ですね。いい戦争なんてどこにもないのだけれど、いい戦争を日本はしていると教え込まれた。またそういう情報しか入らない時代ですね。情報は管理されていたからぜったいに入ってこない。与えられた情報に疑いを持って誰かに喋ったらすぐ引っ張られて刑務所にいれられる、そういうのが戦争の時代だったのですね。
日本と中国の戦争の挙げ句に日本とアメリカが戦争することになりました。そのころになりますと私は20歳を過ぎています。昭和19年に結婚しましたが、夫は結婚式の2週間後に戦争にいきました。そういう時でも私は愚かしく、日本は正しい戦争をしていると、正しい戦争をしているというのはまったくおかしいけれど、アメリカが悪いのだと。アメリカは強いから日本は負けるのではないかという懸念は始めから持ってはいたけれど、真珠湾攻撃でたくさんの軍艦を日本が沈めたと聞くと、まさしくああ日本は強いと思う。神風が吹くとまでは私は思わなかったけれども、神風が必ず吹いて日本が勝つというのが、大方の風潮だったのですね。
そして私は一生懸命戦争に協力してきたと思います。一生懸命働いて、戦争にこれだけたくさん必要なのだから私たちは我慢しましょう、ほんとうに我慢しましょうと言って協力してきた人間なのです。戦争が他国を侵略しているものであるとか、誰がそのために儲けるのか、誰が利益を得るのかということはまったく念頭になかった、子ども時代から20歳すぎまで。
敗戦となって、初めて「真相はこうだ」といういろんな情報が出てきたときには、私はもうただただあきれて、なんということをしていたんだという驚きばかりでした。どうして自分たちはこんなに無知だったんだろうと。
そうして新しい憲法が出来、日本はそれから60年ずーっと平和できたわけです。いま憲法を変えるとか、あるいはまた教育基本法を変えるとか、話を聞くたびに、なにか私はゾッと身の毛がよだつような、戦争の足音がそばに忍び寄ってくるのではないかと感じることがあります。今まで日本が戦争をしてこなかったのは憲法九条があったからに違いない、だからどうかその憲法を護り続けて欲しい。
平和の中で生まれて平和の中で育ったら平和のありがたさというのはたぶんわからないと思うのです。私が戦争のなかで育って戦争がどういうものかわからなかったようにね。だから平和のなかで育った方たちに年寄りは戦争を語らなければいけないのではないだろうかと思います。それで冒頭にこんなことをしゃべっているのです。
戦争が始まるとすべてがお国のためです。戦争が始まった以上は、といわれる。今までの戦争は、始まったがために引き返せないということでやり、もう始めちゃったのだからやる。やるからには勝たなきゃいけない。そういうふうなひとつ既成事実を作りそこに進んでいく。いろいろと本を読んだり聞いたりすると、昔から日本にはどうもそういうところがあったようです。そういうときに、それを引き戻す力というのを国民は持たなければいけないのではないか。
今も情報は管理されていると思うけれど、私どもが子どものときよりは、敏感になっていればもう少しおかしいということがわかるのではないだろうかと思うのです。振り返って行き過ぎた手綱を引き締める。そういう力の一端を担いたいというふうに今は思っています。
戦後の一番のありがたいところというのは、ひとりひとりを大事にするということだと思うのです。ひとりひとりの命を。戦争で国のために死ぬのはあたりまえなのだというのではなく、ひとりひとりがそれぞれの心、かけがえのない命を持った個人なのだから、そのひとりひとりを大事にするということが戦後の理想だったのじゃないかと思うのです。それを変えてはいけないと思います。
何をしなさいと人に言われてするのではなく、感受性豊かな自分の心で感じ身体で感じそして自分で決めて生きたい。誰かが、「国を愛しなさい」「ここをこうしなさい」って言うから、「はい」って言ってするのではなく、ひとりひとりがお互いを大事にしながら生きていきたい。そういうふうに思いますよね。私の言い方はつたなくって充分に伝わらないかもしれないけれど、そういうことを一番先にお話ししたかったと思うのです。