神沢利子さん講演会

神沢利子さん講演会

第3回

樺太には木イチゴや、フレップっていうブルーベリーみたいな黒い実がなっているのですけれど、それは人間も好きだし鳥やウサギや熊も好きなので、フレップ採りに行くときはみんなが「熊には気をつけてね!」って言います。私も木の幹についた爪跡や、足跡みたいなものを見つけたりしていたので、おっかなびっくりで採りにいきました。途中でみんなと離れてしまうとぞっとしたり、どこかで「ガサッ」と音がするとびっくりして逃げてきたりしたことがよくありました。実際に出会うことはなかったけれど、熊は非常に身近な存在でした。そういえば我が家に熊がいたのですよ。生きている熊じゃなくて死んだ毛皮なんですけど(笑)。

歳をとって本を書くようになってから思い出したのですが、その毛皮は私のお話によく出てくるのと同じ金色をしていたんですね。いつも四つ足を伸ばして寝ている毛皮が奥座敷にあって、お正月には、そこで家族が並んで写真を撮ったりしたことが懐かしく思い出されます。毛皮は戦争中に食料と替えてしまい実家にももうないのですけれど、幼い頃から見入っていた熊が童話を書くときに生きた熊となって躍り出てきてくれた、そんな気がしています。

私が樺太で育った大きな喜びのひとつは「自然」です。北海道はアイヌの方たちがいた土地ですね。樺太の地名はほとんどアイヌ語でアイヌの人たちはずっと居たのですが、私は会ったことはありません。出会った人たちはシベリアの方から渡ってきた日本人より先に居た人たち、ニヴフ(ギリヤーク)とか、ウィルタ(オロッコ)と言われる民族です。それ以外にもヤクートとか色んな先住民族の人たちが樺太には住んでいました。

南樺太の南の方にいた日本人はそういう人たちの存在も知らないで大きくなった方もいますが、私は南樺太の北の方に住んでいましたので、その人たちの集落を知ることができました。そこは「オタスの杜」といって、一種の観光地のようになっていて、先住民の人たちの暮らしを見に行くという、そういう土地にもなっていました。その頃の私たちは「日本の内地人」という言い方をされて、内地の子どもとして親に連れられて観光に行く立場でしたが、先住民の人たちにしてみれば「見られる」という立場です。それはあまり気持ちのよいことではなかったのでしょうが。

私の家のある炭坑の山から4キロほど離れたところに、その辺ではいちばん大きな敷香という町があり、オホーツク海にそそぐ湾がありました。ロシアの方から流れてくるポロナイ川という大きな川の河口の島(三角州)に「オタスの杜」があったんです。私は10歳の夏に初めてオタスに行ったんです。本当に驚いたのは、私たちは日本のどこにでもあるような普通の家屋に住んでいたのですけれど、そこの先住民族の人たちはテントなんですね。

材木を組み合わせたり丸太を組み合わせたところに、布や獣皮でカバーして、その中に敷物を敷いてストーブを置いたりして暮らしていた。それからトナカイを飼っていたんです。トナカイというものを私は全然知らなくて、トナカイというとサンタクロースしか思い出さないわけです。ところが自分の住んでいるところからほど遠からぬ村にトナカイが居るではありませんか。本当にびっくりしました。その人たちはトナカイの乳を搾って飲んでいる、皮で長靴や洋服を作ったりしている、チーズみたいなものも作っている。トナカイと一緒に暮らしているのですね。

それはもう「羨ましい!」と思いました。だいたいが子供って冒険好きですね。兄たち、男の子は木の上にお家を作って遊びます。女の子は木の上には作れないので草の葉っぱでお家を作ったりしました。そういう「お家ごっこ」が好きで、その人たちの暮らしが大人の「お家ごっこ」のような感じがしたんです。テントで暮らしてトナカイを飼いお乳を搾る、しかも子供たちがトナカイに乗って遊んでいる。その頃の私はオオカミに乗って髪を振り乱して駆けている『山姫かずら』という少女小説に憧れていました。そういうものにとても胸がどきどきしましたから、トナカイに乗っている子供が傍に居ると、羨ましくって仕方がなかったんですね。ひとつにはエキゾチックだったのでしょうね。

日本の国籍があったのはアイヌの人たちだけでした。ウィルタには国籍はなかったのです。また彼らはロシア人でもないのです。彼らは国籍がないだけに自由に国境を行き来していたわけです。それでロシアの言葉も日本の言葉も知っているしで、戦時中は日本軍、あるいはロシア軍のスパイに利用されました。私の知り合いのウィルタの人は、自分は日本の兵隊になったと喜んでいました。

その頃の少年にとって日本の兵隊になるということは、とても名誉なことで嬉しいことだったのです。ゲンダーヌという人なんですが、日本名を北川源太郎と言っていました。そのゲンダーヌは日本のスパイだということで捕まって、シベリアに10年くらい抑留されて帰って来るんです。でも、帰って来たときには「おまえはもう日本人じゃない」と言われて、恩給などももらえない。「おれは日本人じゃない。源太郎はやめてゲンダーヌに戻る」そう言って亡くなった人もいたわけです。そんな風に色んな悲劇が樺太にはありました。

樺太はそういう歴史のある土地でした。私はオタスで、胸がどきどきしたと言いましたが、実は彼らの生活というのは非常に辛いものだった。けれど、子供の私にはわからない。大人になってから知るわけです。それでも、「羨ましいな」と思ったことは事実で、その人たちは差別されている生活をしていたかもしれないけど、野を駆ける子供たちは嬉しかったに違いないと思うんです。少数民族に出会ったということは私にとって非常に大きなことでした。

私が童話を書き始めたのは30歳の頃でした。戦中に結婚し、戦争が終わって子供を産んだ後に結核が再発し、ずっと病気で寝ていなければならない時期がありました。戦後というのはみんなが不自由な生活をしたのですけれど、私の家も夫は復員したけれど職がない、あっても会社が潰れてお金がもらえないという非常に貧乏な時代で、その貧乏な時代に私は働きも出来ず寝ていたのです。

傍らには子供がいるのに何一つ出来ずに寝ている自分の情けなさ。その頃に親類や姉たちが子供たちに送ってくれる雑誌とかを見ると、〈おかあさんの童話募集〉というのがあったんです。入選すると僅かですがお金をくれるのです。床の中に寝ていても字だけは書けるということで童話を書き始めました。書いているうちにやっぱり世界が広がってくるのですね。大きな転機は「母の友」という福音館の雑誌に樺太のオロッコの子供のことを書いた童話を投書したとき、編集者の松居直さんが「ああいうのを連載で」と言って下さいました。

1961年に初めて自分の本が出せました。『ちびっこカムのぼうけん』(理論社刊)という作品です。これを書いたのは1960年ですから、下の子が小学生、上の子が中学に入ったばかりの頃です。私は本当に情けない母親で、家賃を取りに来て催促している人の声とかが子どもたちに筒抜けの狭い部屋に住んでいました。子供たちを隠す場所もなかったのです。そういう窓を開けても星も見えない長屋の小さな部屋で書いたのですけれど、後に「女性に珍しい壮大さ」なんてことをよく言ってもらえました(笑)。

何とかそんな中で子供たちが育ってくれたのはありがたいことです。子供たちは「自分で育った」と言いますけどね。「子供をどうやって育てましたか?」って聞かれるのが私は一番苦手です。その狭い部屋の中でも、書いていると心が広い世界に飛んで行く、それが何とも言えない経験だったのです。家賃は払えないし、給食費も払えない。ある日子供が「レントゲンを取るのに髪を縛る手拭いがいる」とか言うので持たせると、その手拭いを男の子にドブに落とされて泣いて帰ってきました。その時、母親らしい陽気なことを言って気持ちをはぐらかして助けてやればいいものを、私は不機嫌に黙ってしまいました。そんな情けない母親だったのです。

今になると、なぜあの時ユーモアを持って対処できなかったんだろうと思います。今なら子供を抱きしめることが出来るのに。そういう情けない自分ではあったけれど、童話を書くということが心の逃げ場というか、救いになりました。そして、その源泉が樺太にあって、樺太の野にいたリスや鹿や、あるいは実家に居た熊、自分の心のどこかにある色んなものがふわーっと出て来て、お話を勝手に紡ぎあげてくれた、そんな気がするんです。

この『ちびっこカムのぼうけん』というのは、舞台がカムチャッカなんです。樺太には火山というものがなかったと思うのですけれど、カムチャッカには200以上のの火山がある。その頃『カムチャッカ探検記』というのを読んでいて、カムチャッカは樺太と非常に風土がよく似ていて、その火山にガムリイが住んでいるって書いてあったんです。何語かわかりませんけど、ガムリイとは“山の霊”という意味です。それが鯨を海から捕まえてきては火山で炙って食べている。だから、その地方の人は恐れて山に登れなかったと。そういう三行ばかりのことが書いてあった。

ガムリイっていうのは人間の形をしているに違いない、鯨を捕まえて食べるのならものすごい巨人だろう、そんなイメージが膨らみました。私は狭い所に暮らしているせいか、巨大なものに心が惹かれるのです。それと、その頃の日本のファンタジーというと、佐藤さとるさんの『コロボックル物語』や、いぬいとみこさんの『木かげの家の小人たち』など小さいイメージなのですね。だから「私は大きいのでいこう」と思って(笑)。カムには子供の頃に会ったウィルタの子供の面影があります。カムは恐ろしい魔の山にお母さんの病気を治すために“命の草”を採りに出かけるんですね。“命の草”を採って帰ってお母さんは元気になるんです。

ある時、亡くなられた児童文学者の上野瞭さんに「カムの病気のお母さんは神沢さんのことですね?」って言われたんです。その時は「え?」って思ったのですけれど、その当時、私は結核で生活保護を受けて、横浜の療養所に入院し手術もしてもらったんです。私と交代に今度は夫の胸が悪くなって入院し、退院した私が夫の居る病院に通っていた時代に『ちびっこカムのぼうけん』を書いたのです。「病気のお母さんだったんですね」と言われて、「病気のお母さんが私なら、ちびっこカムのお父さんは夫なんだなあ」と考えました。

カムのお父さんは魔法でシロクジラにされている。シロクジラってわけのわかんないものですよね。そのとき「あ!」と思ったんです。あれを書いていた頃の夫は、私にとって正体のわからないシロクジラだったんだ。カムはお母さんの病気を治すし、お父さんの魔法まで解いてあげる。だから、これには私の望みが全部入っている。私も本当に“命の草”が欲しかった。夫も人間に戻って一家の主人のような顔で帰って来る、それは私の願望だったのだ、と。「正直なものだなあ」と思いますね。書く物は隠そうと思っても隠し切れないのだと思いました。