第4回
「ヌーチェ」や「カム」の冒険物語を書いてから、ほぼ10年目に書いたのが『くまの子ウーフ』(ポプラ社刊)です。これは教科書に採用されたりしたのでよく知られている作品だと思います。以前、松居直さんが『子どもの文学』の中で「日本の児童文学は起承転結や構成がはっきりしていない」というようなことを書かれていて、私もそうだと思い、一所懸命物語づくりということを意識して練習し『ちびっこカムのぼうけん』などを書いてきました。
10年くらい経って、「もう少し違うものを書こう」「物語づくりのための起承転結ということじゃなくて、詩のような短い形で物の本質に迫るものを」と思って書いたのが『くまの子ウーフ』なんですね。これは“なぞなぞの本”ですか?と言われるくらい疑問符が目次にいっぱい付いているんです。その中で一番知られているのは「ウーフはおしっこでできてるか?」という話ですけれど、これについては、いろんな方がいろんな風におっしゃって下さっています。子供たちの中には「本当にツネタがきらい!」とか、「ツネタがいじわるするからアタシきらい、ウーフがかわいそう」って言う子がいるわけね。
でも中には「おれツネタ」って言う子もいるわけです(笑)。そういう子がいてくれると私は少しほっとするんですよ。「ウーフがかわいそう」っていう子には「ウーフはツネタが好きなのよ、ツネタがいないとウーフはつまんないのよ」と話をするんです。作家の筒井敬介さんが「人間は同じような形じゃなくて、色々な凸凹がある。その凸凹が組合うとかっちりとした人間関係や社会が出来る」とよくおっしゃっていたのですけれど、色んな個性を持った人間それぞれが大事な友達として生きてゆく。
この話でもツネタがいなかったら成り立たないですよね。ツネタが刺激することでウーフも成長するといいますか…。私は自分では「なかなかツネタはイカすよね!」と思っているから、「もっとツネタを好きになってよ」と思ってしまいます。学校の先生から「うちにもツネタがいるんですよ」などと言っていただくと、本当に嬉しく思います。
私は(東京都)三鷹市に住んでいます。三鷹には玉川上水が流れていて、その上水の近くに住んでいます。そこには桜並木がずーっと続いていますが、古い桜なので少し衰えているわけです。もうずっと前のことですが、「このごろ、緑の葉っぱが濃くなったね」と、娘たちが話していて、私はそういうことに鈍感なのですけれど、葉っぱの緑が濃くなったのは何故なんだろうかと考えると、それまでは上水の水が涸れていたんですね。
そこに羽村の取水口から水を流すようになったのです。上水に水が流れるようになって、桜の葉っぱの色が濃くなったんですね。それで水って言うものは本当に大事だなあと改めて感じました。〈命の水〉という言葉は民話などによく出てくるのですけれど、老年と幼年との間にも目には見えないけれど通底している地下水のような流れがあると思うのです。老人が子どもの頃のことをよく覚えていると言いますよね。私自身いろんな記憶は怪しくなっておりますけれど、商売柄子どもの頃のことだけは老人になる前からよく覚えているのです(笑)。
子どもに帰って物を書くから、いつも子どもに帰る訓練をしているからです。子どもの中には持って生まれた〈命の水〉というものが溢れるほどに満ちていて輝いているような気がします。老年と幼年の間にはそういう地下水のような〈命の水〉が流れている。私たちは普段気づかないけれど、その源=幼年から出ている〈命の水〉から色んな元気を貰っているのではないだろうか?それは自分自身からもそうだし、周りに居る、例えばいま隣に居るお子さん、電車の中で会った赤ちゃんでもいい。その子を見ると思わず微笑んでしまったり心が柔らかになったりする。そんなとき、知らずに〈命の水〉を貰っているのだろうと思います。あるときにそれが迸って出てくるような、そんな気がするんです。
『鹿よ、おれの兄弟よ』(福音館書店刊)の物語は詩のような形で書きました。そして、ロシアの画家、G・D・パヴリーシンさんがほんとに素晴らしい絵を描いて下さいました。いい絵描きさんだと以前から知っていましたが、このような自然ではなく人間を描いた作品を見ていたので、「パヴリーシンさんには、もっと英雄物語みたいな話を書きますから今回は…」、って言ったのですけれど、編集者の方に「いや絶対この人がいい!」と言われて…私は少し心配していたのですが、本当に涙が出てしまうようなすごい絵を描いていただけて幸せです。
この本には北方の少数民族が描かれています。少数民族になぜ私が惹かれるのか?少数民族は国家を持っていません。これは中沢新一さんの受け売りですが、私は中沢さんの『カイエ・ソバージュ』(講談社選書メチエ)シリーズが好きなんです。私にはその中身をすべて説明できないので興味のある方はぜひ読んでみて下さい。この中で国家には王というものがあるけど、少数民族では王ではなく首長というものがある。で、首長とは王と全く違い、ひとにサービスするものだと書いてある。権力を振るうものではないと。
だから首長になるっていうことは大変なんです。これを読んで少数民族における首長というものを私は知りました。それと私が『カイエ・ソバージュ』の中で非常に感激したのは対称性ということ。人間は色んなものを食べるでしょ?神話では、夏に人間は狩りをして動物などを殺して食べる。冬に今度はもっと大きな精霊が人間を食べてしまう。だから交代するのね。私たちは食べるものであり食べられるものでもある。食べられるということは必要である、あるべき姿だったのですね、神話の中では。「食べる者は食べられても文句を言っちゃいけないんだな」「食べられてあなたの何かになればと思ってみなければ」と。それが本当に感じ入ったことでした。たぶん昔の人たちや少数民族の人たちはそういう風に思って、動物を敬い認め、自分の命もいつ召されても不服を申し立てない、そういう人々だったんだろうなと思います。
少数民族に私が惹かれるのは昔の祖先たちの思いというようなものを、今日まで一番長く伝えている人々である、ということなんです。例えば、私たちの祖先も山や川を拝んだり、自然というものは精霊が宿るもの、と考えていたと思います。山岳信仰とか色んなものがあるけれど「全てのものは精霊の容れ物である」という風な考え方ですね。それから命というもの。動物は人間のためにあるのではなく、動物自身のためにあるわけです。
そういう全ての命への畏れと敬いですね。それを大事にする。狩りというものは相手を憎くて殺すわけではありません。食べるため毛皮を獲るため、「あなたの命を私に下さい」と願って撃つわけです。「食べる」ことに感謝の気持ちを忘れない。相手を敬い認める気持ちを忘れない。そういう思いを今の子供たちに伝えたくて『鹿よ、おれの兄弟よ』を書きました。そして、私自身もそれを信じられればいいと思います。現代に生きる多くの人々には希薄になっている気持ちですけれど、それぞれが自分の気持ちに納得の行く方法で、そのことに思いを致し「食べる」ということに常に感謝をもって暮らしていきたいものです。
それでは、『鹿よ、おれの兄弟よ』を読んで終わらせていただきます。あまり上手に読めないかもしれませんが、ごめんなさいね。
そして、神沢さんの朗読がはじまり、講演終了となりました。
『鹿よ、おれの兄弟よ』 福音館書店刊
神沢利子作 /G・D・パヴリーシン絵
定価 1785円(本体価格1700円) サイズ: 29X31cm ページ数: 36
初版年月日: 2004年01月31日 ISBNコード: 978-4-8340-0632-2
「シベリアの森で生まれたおれは猟師だ。おれの着る服は鹿皮、おれの履く靴も鹿皮だ」。力強い詩と、 はっと思わせるような東洋的な細密画によって、シベリアの神秘的な森へとどんどん引き込まれていきます。
1924年、福岡県生まれ。幼少期を北海道、樺太で過ごす。『いないいないばあや』で日本児童文学者協会賞、『タランの白鳥』で産経児童出版文化省大賞をそれぞれ受賞。『くまの子ウーフ』、『流れのほとり』、『神沢利子コレクション』(全5巻)など著書多数。