◆詩を書く少年がいた
「人類函」という詩を書いたことがある。一辺800メートルの立方体のアクリル製透明人類函(ばこ)に、地球上30億人の生人間(全人類)が次々と入っていき、ひしめき合っている情景から詩は始まる。
遠くまで続く草原の向こうには、地球上に生まれたすべての過去の人類が入っている12個の過去人類函が、凄いパースペクティブで、黒々とした影を落としていて、そこには歴史上の人物も黒い不定形になって見え隠れしている。
40年ほど前、まだ地球上の人類が30億人だった頃、何かの情報で、全人類は800米立方の空間に入ってしまうという計算式に接して、衝撃を受けた。大きいのか、小さいのかの判断もつかない。でもそんな換算をする想像力がショックだった。19歳だった。
「ボク」(私は自分をそう記述した)は、人類函に全人類が入るのを監視する「守護神」役を仰せつかって、草原で焚き火をしながらそれを見守っている。愛していたナメクジの妹の星のような性器を思いだしながら。彼女もすでに人類函のなかにいる。
後期少年期にいた私の、なんというヒロイズム、ナルシズム。けれどもやっぱりそのどうにも動きのとれない人類函に「ボク」も入りたくなって、人類函の底のあたりをたたきながら、「入れてくれ、入れておくれよ」と叫ぶのだが、まったく反応してくれない。
その頃私は、鏡に囲まれた無限空間の「鏡の部屋」という詩も書いている。つまり対面する鏡どうしが映し合うことによって、無限の遠近法が出来るわけで、自分以外のものが存在しないその部屋のはるかかなたから、裸体の少女がやってくるという、エロスの妄想に取り憑かれた少年でもあった。
また、ぷよぷよした奇怪な壁に囲まれた真っ暗な部屋に、ブリジットという名のバードが飛んでくる「ぷよぷよ」という子宮幻想の詩。迷宮のような町で星を拾い集めていく「六面体会館物語」という詩は、結局集めた星がすべて石ころで、それを棄てると道を転がりながら、やがて再び星になって輝き出すという価値の喪失と再生といった、極めて自閉症的な散文詩ばかりを書いていた。
それらの詩は、吉原幸子の跋文をつけて『粘液質王国』という私家版の詩集にまとめた。それからランボオや、ロートレアモンのような天才少年詩人に憧れていた私は、20歳を過ぎた頃詩を書くのを止めてしまう。リリシズムによる一種の才能の自死である。
今度、晶文社から上梓した『東京モンスターランド』は、そんな少年詩人時代の記述から始まる。
◆月光写真の手法で描く
8年ほど前、事務所のホームページをリニューアルしたとき、ひとつのコンテンツとして立ち上げた「自叙伝的・東京サブカル記」がそもそものスタートだった。「自叙伝的」という限りは自分史の作成ということになるが、数章を書いてそのまま放り出していた。それを昨年、晶文社の倉田晃宏さんから出版の打診があり、一気に書く決意をする。
しかし、お遊び半分のブログ的エッセイではなく、書籍となるとさすがに考えてしまった。また、自叙伝というのも、大仰で抵抗がある。結局章立てを考えるうち、私の出会ったモンスター達といった書き方に固まっていった。
印画紙の前に自分が立って太陽の光を浴び、私の姿を焼き付けるのが日光写真であるとしたら、太陽の光を一度、月面(それぞれの登場人物)に当て、その反射光でぼんやりと自分を浮かび上がらせる、呼ぶとしたら月光写真的手法で書くことを考え出した。
自分を記述するという高邁な行為になじめないことと、ともかく自分がそんな人間ではないことの自明の理から、こうした選択は当然だった。