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世界で会った人

 

第1回 ロンドン、ハンプステッドのマンション生活

 
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ハンプステッド、ロンドン

ハンプステッド、ロンドン

チャリング・クロスから北西に伸びる地下鉄ノーザンラインが、ハンプステッド・ヒースの丘の南側一帯に広がる高級住宅地、ハンプステッドに入ると、ベルサイズ・パークという静かな駅がある。廊下にベッドを並べたような安いゲストハウスに荷を下ろし、一年暮らすアパート探しを始めた。新聞広告を見ては電話し、車で迎えにきてもらって見て回るのだが、予算の範囲で快適な部屋はなかなか見つからなかった。文房具屋のガラスドアに貼ってある葉書大のカードに、部屋貸し、アパート、アルバイト、ガソリン代シェアの旅行など、さまざまな私的な広告がペンで書いてある。一つ先のハンプステッドから歩いていけるところに、3部屋で週いくらと書いてあるのがあった。フィンチリー・ロードという大通り面したエドワード朝の大きなマンションの5階で、予算オーバーだったが、カボールという独身のハンガリー人の男性が魅力的だし、長い廊下に白いドアが並んでいるマンションは、小さな家に住む日本人には貴族の館のように見えたので、奥の部屋を1年借りることにした。カボールはブダペスト大学の言語学科を出て10か国語を自在に操る30代半ばのにこやかな紳士で、アメリカン・カレッジで教え、BBCの音楽番組を担当する批評家だった。こうしてカボールは私のヨーロッパ入門のガイドになった。
ハンプステッド駅の地下深いプラットホームから古いエレベーターの鉄籠にゆっくり揺られて地上に出ると、そこは緩やかな2本の坂道が合流する三つ角で、古い落ち着いた店の並ぶ、ロンドンではおそらくもっとも上品な丘の上の町である。銀行、郵便局、スーパーのほかにパブ、レストランはイタリアン、フレンチ、インディアン、チャイニーズ、ポールのパン屋、八百屋、花屋、文房具屋、ウォーターストーンの図書館のような奥深い本屋、昔からの古本屋、骨董屋通り、ブティック、ギャラリー、名画座もある。プラタナスの大樹とイギリスの小さな花がひっそり咲いている茂みに沿って細い坂道を登ると、古楽器の博物館になっている大きな館がある。そこで古楽器のコンサートが開かれることもある。パブは昔は男だけの社交場だったが、今は若い女性たちも集まるカフェみたいになった。
表通りからちょっと横にそれると古い小教会と傾いた墓石の並ぶ墓地や、館の中で子供たちの声の聞こえる小学校、年寄りがベンチでお喋りしている老人ホームがある。広い歩道の木陰には昔ながらの赤い郵便ポストが置き忘れられたように立っているが、ちゃんと用をなしている。家々の間の広い庭の木立には栗鼠が跳び回っていたのだが、この頃はすっかり姿を見かけなくなった。昔は表通りのガラス張りの店の中で、お針子が黒縁の眼鏡を通して絹のストッキングの電線を、高い椅子に腰掛けてかがっていたものだが、そこはやがてカメラ屋になり、その後はボディーショップになった。新聞や雑誌のスタンドもなくなった。駅の売店には朝刊、夕刊が山と積まれて政治とビジネスの活気を反映し、それを買って歩く男たちの活力の源でもあったが、今は振り返られず、人は無料の政党新聞を取り上げていく。

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ハンプステッドの玩具の店

ハンプステッドの玩具の店

水曜日から日曜日までの12時から17時まで開いているジグムント・フロイト博物館は赤煉瓦造りに白い窓枠のついた瀟洒な建物で、精神分析の被験者が座った有名な革張りでイランの織物を掛けた長椅子が、暗い書斎の中央に置いてある。飾り棚にはアフリカの黒人の彫像が沢山並んでいる。今、6月24日まで6匹の狼が木の枝に乗っている、有名なロシアの貴族、性倒錯患者、「狼の人」セルゲ・パンケイェフが見た、木の上の6匹の狼の夢を描いた、ポーランドのスラヴァ・ハラシモヴィッツの絵の展覧会が開かれている。精神の倒錯した陰鬱な部屋にいるとこちらの頭も歪んでくる。フロイトがオーストリアのナチ支配を逃れて娘アンナと晩年を暮らしたこの病んだ家の玄関を出て、新緑の木蔭の歩道に立ち、辺りの邸宅の芝生の薔薇が嬉々として日を浴び、浅黄の楡の梢が青空に微笑んでいる無音の風情を眺めると、そこは天国なのだと思う。
カボールのマンションの食堂の窓からはこの丘に並ぶ煉瓦造りの家々が、モスグリーンの刺繍のある樹々のレースに包まれて透かし眺められ、夕日に染まった丘の上に虹が懸かったり、秋の宵には屋根の煙突の上に満月が座ったりするのが見えた。カボールはロンドンの美術館、劇場、郊外のハンプトン・コート、リッチモンド公園、キューガーデンを教えてくれ、ヨーロッパの地図の地名に下線を引いて、訪れるべき町を示してくれた。
「ローマは一番好きだ。七つの丘があり、テーベレ河が蛇行して、古代遺跡と古い宮殿、聖堂、美術館がいっぱいで変幻自在だ。パリはどこの町ともまったく違う。かつては城壁に囲まれてその中が市街だった。今は取り壊されて道路になっている。都市計画にもとづいたパリの街は宝石のように美しい。スペインのグラナダはキリスト教、イスラム、ム―アの文化が重層化してある歴史の標本だ。」
カボールのマンションにはドイツ人の美人のデザイナーや、スペインのエアラインのスチュワーデスや、いろいろな国の客人があり、カボールはそれぞれの町の女友達の家に泊まっては旅行をしていた。こうしてカボールが下線を引いてくれたヨーロッパの町を一つずつ訪ねることになったが、そのなかでかくべつ印象に残った町は、第二次大戦のアメリカ空軍の爆撃を免れた中世の町バンベルクだった。ニュールンベルクからさらにローカル線に乗り替えて訪れた古色蒼然とした僧院と大聖堂。ミサの最中で、高い天井いっぱいにパイプオルガンが鳴り響いていた。二つの河の合流した上に建った旧市役所、河の下流の“漁師”の家並。その町のビヤホールで飲んだ薫製のビールも、卵焼きとほうれん草の料理もうまかった。若者たちと片言のドイツ語で気炎を上げているうちに、ニュールンベルク行きの最終列車に乗り遅れ、やむなく同じホテルに舞い戻った。

 

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ハンプステッドの邸宅の庭

ハンプステッドの邸宅の庭

大陸の町を旅行してドーヴァー海峡を渡り、ロンドンに戻ってくると、カボールが、
「イギリス人はワイルドに見えるだろう。イギリスの女たちは馬のように歩くだろう、こんなふうに」といって、大きな体を左右に揺すりながらがに股で食堂のリノリュウムの床を歩いて見せ、舌を拡げて笑った。
英国人は紳士淑女という観念を中学生のときから植え付けられていたから、それと正反対のことをイギリスにきて言われてびっくりした。
「そうかな」と戸惑いながら考えた。
たしかにヨーロッパの人は東へいくほど身なりがきちんとして、いまだにというのが正しいのだろうが、決まっている人が多いようだった。つまりクラシックなのだ。イギリスはローマ帝国の最西端の辺境の地だ。おまけに先祖はギリシァ・ローマからは遠い北方の海賊だ。フィレンツェのイタリア人の隆とした紳士、女優のような婦人たち、もっている逸品の革のバッグと履いている靴の光沢を思い出すと、ややくたびれたロンドンの勤め人の中には見当たらなかった。それにその時代はパリ五月革命から五年目で、第一次オイルショックのさなか、若者たちはよれよれのマトンの毛皮のコートを引っかけ、雨でも傘をささず、ざんばら髪を濡らして歩き、女たちはインド木綿のロングスカートをゆらゆらさせ、くたびれたバッグを抱えて道を急いでいた。探検家の英国人というイメージはあっても、労働者階級のイギリス人というのは映画以外では見たことがなかったのだ。北国で太陽の少ないイギリスでは人は初老ともなると骨を病み、老馬のように股を開いて一歩一歩踏み堪えて歩かなくてはならなくなる。馬はパカパカ歩くばかりではない。
カボールの父親はトルコ学者で、トルコの歴史を研究した。カボールの書棚にもアラビア文字の本がぎっしりと並んでいた。彼の書いたピアノ・リサイタルの批評は揺るぎなく構築された言語のゴチック建築で、辞書をたくさん引いても、単語が楽譜になり音になってホールを充たしていきながら、ピアニストの手と足の表現を語る意味を読み解くことはできなかった。
カボールの姉夫婦がブダペストからやってきて、食堂でハンガリー語をしゃべっているとき、なにやら「コーレバカシ」と聞こえたのでびっくりして、
「いま日本語をしゃべりましたか」と訊くと二人は笑った。
ハンガリー語は日本語と音が似ていて、先祖は同じかもしれないという。カボールが世界の文化と歴史を語り、政治を論じるのを聞いていると、こちらもヨーロッパからアジア、アフリカまでも翼が広がっていくようだった。カボールはアラビア半島のオマーンでは王子と馬を走らせ、油田の採掘箇所を選定し、カイロでは日本の商社マンが娼婦たちを集めてカレーライスを作って食べさせるのに参加した。カボールが夜中に地球の果ての友人とスペイン語やアラビア語で大声で談笑しているのを聞いていると、これが世界にいることなのだと思った。
カボールは布地を愛した。トルコやハンガリーの幾何学模様の織り地を買って壁、床、本棚、洋服ダンス、椅子もベッドもそれで覆った。ひとつ彼に教わったことがある。玄関の靴棚の上の台に麦藁細工の籠が置いてあり、なかに革の手袋がいっぱい入っていた。彼は手を大事にしていた。それは女の身体に触れるときのためであった。別れ際にカボールと握手したとき、大きな身体にもかかわらず手は女のように柔らかかった。バービカンの国立劇場でシェイクスピアの『テンペスト』を観た。その後楽屋にいって友人の紹介でプロスペロー役の男優と握手したことがある。その手も女のように柔らかかった。