耳から聞いた童謡の歌詞を誤って覚えているという話はよく笑い話になる。
同音異義語が異様に多い日本語の特性と、童謡の生まれた時代の語彙と現代の語彙に隔たりがあるせいだろうが、私の場合、その最たるものは「荒城の月」であった。
向田邦子さんが、この歌の歌詞「めぐる杯」を「眠る杯」と覚えていたというエッセイをご存知の方もいるだろう。私の場合は、ズバリタイトルで、長いあいだずっと「工場の月」だと思い込んでいたのである。
そもそも「はるこうろうのはなのえん」で始まる歌詞の意味は、耳で聞いただけではほとんど意味不明であり、何度聞いてもさっぱり理解できなかったし、ましてや「こうじょうのつき」と聞いて「荒れた城」を思い浮かべる子供が果たして存在するであろうか。
かくて、私の頭の中では、ずらりと煙突とスレート葺きの斜めの屋根が並んでいる工場地帯の上に満月が出ていて、モノクロームに工場を照らし出している、という風景が出来上がっていて、後年、実は「荒れた城」だったと判明してびっくりしたものの、頭に焼きついた「工場と月」の風景は今も塗り替えることができない。
これと似たようなことが、本や映画でも起こる。
いちばん多いのは、SFやミステリなど、誰かが紹介したものを先に読んでいて、なかなか本体のほうを読めなかった場合だ。福島正実『SF入門』、石川喬司『SF・ミステリおもろ大百科』など、下手すると現物よりも面白い案内本を繰り返し読んでいると、頭の中にまだ見ぬ本のイメージが勝手に膨らんでゆき、しまいにはもう読んだような気がしてくる。版権の関係なのか、名のみ知られていて読めない本というのは、特にSFに多かったように思う。そして、期待が高かったあまり、現物を手にして読んだにも関わらず、読む前の想像とイメージが強固なため、イメージが塗り変わらずに読む前の妄想がそのまま生き続けてしまう、というケースがあるのだ。まさしく、「工場の月」現象なのである。
SFにおける最強の「工場の月」は、私の場合フィリップ・K・ディックの『高い城の男』であった。必ずディックの代表作のひとつに挙げられ、その後同工異曲の多数の作品、ゲームや漫画にまで登場することになる世界観??第二次大戦で枢軸国が勝利している世界??の歴史改変SFの名作である(似たような設定の小説はそれまでにもあったらしいが、この作品がエポックメイキングになったことは異論がないだろう)。
これこそ、私が子供の頃から「名のみ知っており」、そしていちばん読んでみたいと切望していた本のひとつであった。
何より、タイトルが素晴らしい。
SFの代名詞のようになり、さんざんパロディにも使われている、同じくディックの代表作である『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』も素晴らしいタイトルだが、いささかケレン味が勝ちすぎている。『高い城の男』のほうが断然スマートで謎めいていて、どこかノーブルな雰囲気すら漂うではないか。
『高い城の男』が発表されたのは一九六二年。日本初訳は一九六四年だが、長らく品切れ状態であり、私が入手したのは一九八四年のハヤカワSF文庫版で、二十歳の時だ。
しかし、ようやく現物を手にしたこの時、初めてその存在を知ってから既に十年以上の歳月が経っており、私の頭の中には長年に亘ってイメージし続けた、完全に私の妄想版である『高い城の男』が出来上がっていた。
だから、かなりの期待を込めて読んだはず??なのである。ところが、それから更に二十年以上の歳月が経った今、現在の記憶に残っているのは、やはり私が妄想していた『高い城の男』のほうなのだった。いや、恐らくは、現物の『高い城の男』と入り混じった、更に全く別のものとなった『高い城の男』なのだ。
それがどういうものかというと、一応舞台はアメリカだが、話が展開するのはほとんど室内で、雰囲気としては密室劇。世界を支配しているナチスと日本陸軍の高官が水面下で支配地での権益争いをしており、その陰湿な駆け引きが話の中心である。登場人部のほとんどが軍服を着ていて、話のトーンは暗い。第二次大戦後の酷薄な恐怖政治の世界が描かれる。主人公は枢軸国支配の世界に疑問を抱いている日系アメリカ人の若者で、思想警察の下っぱだ。彼は、最近連合国が勝利した世界を描いた小説が地下で広く出回っており、その危険思想を流布しているグループを調べるように命令される。その小説は発禁となっているが、回収してもあとからあとから刷られて流布される。その印刷工場を摘発しようとやっきになる思想警察。しかし、主人公はその小説を調べていくうちに、別の歴史を持つ並行世界の存在、そして今彼の存在する世界が成立するに至った秘密にたどり着く??というものである。
どうでしょう、こちらの『高い城の男』。なんとなくこっちのほうも面白そうじゃありませんか? この原稿を書くので、久しぶりに本物のほうを引っ張り出してちらちら読んでみたのだが、これがまた、あまりにも記憶と違うので愕然としてしまい、怖くて再読できない。そのうち、心を落ち着けて再読してみたいものである。
さて、ミステリのほうの「工場の月」は、何を隠そう、アガサ・クリスティの『オリエント急行殺人事件』である。
クリスティの有名作品は、トリックが一行で説明できるものが多く、いわゆる「ネタばらし」をされてしまうと元も子もなくなってしまう。
『オリエント急行殺人事件』もそのひとつ。そして、私が読む前に友人にあっさり「ネタばらし」をされてしまった小説が、この『オリエント急行殺人事件』なのであった。そのため、こんにちに至るまでまだ一度も通して読んだことがない。
いや、実は、何度も読もうとしたのだ。よくできたミステリは、再読に耐えるということが長ずるに従って分かってきたので、ひとつオチを知っていて読んでみるというのもよかろう、と何度も手を伸ばした。しかし、読まねばならない本はいつも山積しており、たまに「今度こそ読んでみよう」とすると必ず邪魔が入る。そういう縁のない本というのがあるものだ。最後に挑戦したのは、数年前、トルコ共和国に行った時で、イスタンブールからアンカラに向かう夜行列車というこの上ないロケーションで試みたのだが、疲れて爆睡してしまい、結局最初の数ページしか読めなかったのだった。
そんなわけで、設定とオチのみ知っている『オリエント急行殺人事件』も私の頭の中ではなんとなく出来上がっており、その映像は細野不二彦の絵になっているのだった。
なぜかと言うに、細野不二彦の傑作漫画『ギャラリーフェイク』のイメージが後から刷り込まれたからである。美術界の表と裏を描いた『ギャラリーフェイク』は一話完結型の漫画だが、その中の一編に、オリエント急行を舞台にサザビーズがオリエント急行関係の品物をオークションに掛けるという趣向のものがあり、これが明らかに『オリエント急行殺人事件』を下敷きにしているせいである。
そう考えてみると、子供の頃に読んだ漫画は、アメリカ映画や翻訳SFなどをパクリすれすれの元ネタにしたものが多く、そちらを先に読んでしまって元のほうが「工場の月」化するパターンが多いのだった。
幻の『オリエント急行殺人事件』。こちらもまた、できれば列車の中で、必ずやきちんと通して読んでみたい。
映画における「工場の月」は、なんと『アラビアのロレンス』である。「超大作」感のある名作映画だが、これもまた長らくタイトルのみしか知らず、ロレンスが剣を振り上げているあのおなじみのポスターのイメージしかなかった。つまり、『アラビアのロレンス』とは、「砂漠で戦う白人」の話である、というイメージである。
間違ってはいない。だが、私の頭の中の『アラビアのロレンス』は、砂漠でラクダや戦車が走り回り、接近戦と近代戦が入り混じった大スペクタクルアクション映画であった。
もうお気づきの方もいるかもしれないが、私はどういうわけか「アラビアのロレンス」と「砂漠の狐」と呼ばれたロンメル将軍をごた混ぜにしていたのだ。どちらも「ロ」から始まる四文字の名前で、砂漠で戦う白人。たったそれだけの共通点で、イギリスの探検家とドイツの軍人を一緒にするとは、どちらの母国からも激怒されそうである。しかも、ロレンスが戦ったのは第一次大戦中のアラビア半島。反トルコ軍のゲリラを指揮した時期をメインにしたのがあの映画。ロンメル将軍はヒトラーの親衛隊長。第二次大戦初期の西部戦線で戦車師団を指揮し、アフリカ軍団を率いてイギリス軍を破ったが、のちにモンゴメリー将軍率いる連合軍に敗れ、第二次大戦の枢軸国劣勢のきっかけになるエル・アラメインの戦いが行われるのはエジプト北部なのだった。
しかし、私の頭の中では、アラビアの砂漠で、ラクダに乗った白い服の白人と、たくさんのアラブ人、そして戦車師団が入り乱れて戦っており、あちこちで対戦車戦を試みるアラブ人ゲリラが戦車に取り付いて爆弾を仕掛け、バンバン爆発が起きてみんなが吹っ飛ぶ、という映像が出来上がっていた。しかも第二次大戦秘話、なぜかBGMは「クワイ河マーチ」、というめちゃめちゃな話である。
だから、初めて『アラビアのロレンス』を観た時は驚いた。なんか変だぞ、私が想像してた話と違うじゃん、と思っているうちに完全に私の妄想の映画とは時期も舞台も異なることに気付いたのである。その衝撃に耐えているうちに映画は粛々と進み、結局印象に残ったのは砂漠を走るラクダのシルエットが美しいことと(そう、ラクダは走ると意外に速いのにも驚いた)、ピーター・オトゥールの日焼け止めなのか何なのかやたらと目張りの入った異様なメークが怖かったことだけなのである。
だから、知識としては訂正されたものの、今も私が妄想していた『アラビアのロレンス』のほうがアクション映画としては面白いのではないかという気がする。
いっそ、『高い城の男』のごとく、歴史改変SFとしての『アラビアのロレンス』はどうだろう。アラビアの砂漠で戦うロレンスと、北アフリカで戦闘中のロンメル将軍とが時空を超えて繋がってしまい、ロレンスとロンメルが時空のワームホールの砂漠で対決し、とことん戦うのである(きっと、SFかゲームで誰かがとっくにやってるとは思うが)。
これならば、私の妄想の『アラビアのロレンス』にかなり近い。戦車もラクダもいっぱい出てくるし、大英帝国とドイツ帝国にがっぷり四つに組んで戦っていただこう。
ついでにこの先どうなるかというと、ロレンスとロンメルが死闘を繰り広げているあいだにトルコ帝国がイギリス占領地を次々と奪還、勢いに乗ってスエズ運河まで獲得してしまい、オーストリアとも戦って勝ち、トルコ帝国がヨーロッパの半分を牛耳る世界になっており、政教分離政策は採られず、微妙にムスリム化した世界になっている、という展開を予定している。
「工場の月」からスエズ運河まで、ずいぶん遠いところまで来てしまった。まあ、それこそが妄想の力というものなのかもしれない。
(2010.6.28)