TOP > web 連載 > 土曜日は灰色の馬 > 第2回 恐るべき少女たち

土曜日は灰色の馬
 (1)
 かつて私がデビュー作の『六番目の小夜子』を書いた時、応募原稿の冒頭にエピグラフがあった。本になる時は削ってしまったけれど、実は吉田秋生の漫画『吉祥天女』のヒロイン、叶小夜子の台詞だった。

 学校っておもしろいところねえ…いろいろな意味で…(中略)
 わたし、あそこがとても気に入ったわ。

 現在、深夜ドラマで『吉祥天女』を放映しているが、叶小夜子がただの色っぽい高校生になってしまっていて、違和感を覚えざるを得ない。売春を「援助交際」と言い換えたものすごい言葉が登場した頃から、少女たちは自分たちを商品として認識してしまったため、どうにも最近の「女子高生」のTVドラマは、「こんなイメージっしょ」という安っぽい媚びと、(実際のティーンエイジャーが演じているのにもかかわらず)どことなく嘘臭さが漂うのである。もはや「フケツ!」と叫び「恥ずかしくて死んじゃう」と赤面する少女は、秋葉原やゲームの中以外では死滅してしまったのであろうか。
 昔から、「恐るべき子供たち」とでもいうべきジャンルがあって、汚れなき子供に悪魔が宿る、みたいな話は多かった。『オーメン』しかり、『ブラジルから来た少年』しかり。『禁じられた遊び』も、ある意味この系統の変種かもしれない。
 今は絶滅しかかっているジャンルでもある。だって、現実の子供のほうがよっぽど怖いし、怖いのが当然になってしまっているのだから。「恐るべき子供たち」はとっくに多数派になってしまっているのだった。
 それはさておき、このジャンルには傑作が多い。特に女の子が主人公のものは、頭のいい美少女でなければサマにならないこともあって、いろいろと印象に残る作品が多い。
 子供の頃、まずインパクトを受けたのはわたなべまさこの漫画『聖ロザリンド』である。わたなべまさこというのはそれこそフランス映画のような洒脱な絵でヨーロッパの上流階級をリアルに描いた人なのだが、怖い話を実に怖く描く人で、西谷祥子と並んで「外国の」匂いを感じた漫画家であった。
 『聖ロザリンド』は、お金持ちの何不自由ないあどけない八歳の美少女が稀代の殺人鬼であったという話で、本人は罪の意識もないままどんどん周囲の人を殺していく。その理由は、「死んだら指輪をあげる」という約束のためであったり、「嘘をついた」、「ママを泣かせた」などの他愛のない理由なのだ。彼女はとても頭のいい子で、殺人の方法も実に独創的であるため、誰も彼女を疑わない。唯一、執事はそのことに気付き、親に知らせるべきか苦悶する。やがて母親も事実を知ってしまい、ロザリンドを殺して自殺しようとするが失敗し、執事も結局手に掛けることができず、自分の手記を父親に託す。全てを知った父親は、娘を生涯出ることのできない修道院に送り込む。ラストシーンは、雨の中、ロザリンドの乗った車を父親が苦悩のうちに見送るところで終わっている。
 罪ある子を許したまえ。
 しかし、この話は好評(!)であったらしく、続編がある。
 母親が旅行中だと信じているロザリンドは、母親会いたさに夢遊病になってしまうが、修道院を脱出する。その際、集団風邪に苦しむシスターたちに「強い薬」とだけ聞かされていた青酸カリを「よく効くだろう」という「善意」から井戸に盛り、死にかけたシスターが「主よ、おそばに」と呟いたことから彼女たちの願いをかなえようと手間を掛けて全員を十字架に磔にするという凄まじさで、続編は母を求めて自宅に帰ろうとするロザリンドの母恋いの道行き(で、行く先々で世話になった人々をこれまた「善意」で殺していくのであった)と、彼女を追う父親と警察という追跡モノになるのであった。ロザリンドの無邪気さと犯行の残虐さのコントラストがますますパワーアップして、なんとも恐ろしいが、ラストは泣ける。
 ああ、神よ、罪ある幼子を許したまえ。

(2)
 戦闘美少女は日本のお家芸であるが、その系譜はどこからだろうか(あ、ヨーロッパにはジャンヌ=ダルクがいたか)。元々、復讐美少女モノというジャンルがあって、山本周五郎の『五弁の椿』をはじめ劇画や映画にその源流があったような気がする。『女囚さそり』しかり、『修羅雪姫』しかり。『あずみ』もこの系列か。
 その辺りが未知の分野であった小学生から中学生にかけて、怖い美少女といえば少年ドラマシリーズの『ねらわれた学園』、名前も豪華な高見沢みちるであった。同じく、『愛と誠』の裏番、高原由紀(確か、最初に愛が会った時、木の下でツルゲーネフの『初恋』かなんか読んでたんだよな。ツルゲーネフ、ですよ。昔の裏番は凄いですねえ)。『スケバン刑事』の麻宮サキが登場するのは同じく和田慎二の『超少女明日香』を経たもう少し後だし、筒井康隆の七瀬シリーズもこの頃だった気が。
 そして、当時私が強いインパクトを得たのは、レアード・コーニグの小説『白い家の少女』だった。
 実は、すごーく気に入っていた。
 たぶんこれはジョディ・フォスターが主演する映画の原作ということで翻訳本が出されたのだろう。帯が映画のスチール写真だった記憶がある。私はろくに映画も観ていないのになぜかジョディ・フォスターのファンで、『ダウンタウン物語』のサントラ盤を映画よりも先に入手して「マイ・ネーム・イズ・タルーラ」と彼女が歌うところは映画を観る前から知っていたのだった。
 レアード・コーニグという人は、この小説の前にも合作で『子供たちの時間』という、誤って人を殺してしまった子供たちがその死体を隠蔽するために奔走するサスペンス(乙一『夏と花火と私の死体』ですな)を書いているが、その後小説のほうで名前は聞かない。
 原作は、両親を亡くした美少女が一人で郊外の家に住んでおり、それを怪しんで大人たちが次々とやってくる、という話で、彼女が親を毒殺したということが示唆されているのだが、正直いって途中はあんまり面白くなかった。
 しかし、ラストが秀逸で、恐らく映画制作者もこの場面を撮りたかったがためにこの原作を選んだのではないかと思われる。
 最後の場面。
 彼女の犯罪を確信しつつも、それを黙っている報酬に彼女を自分のものにしようと目論んでいる男に少女はお茶を出す。
 もちろん、男は彼女が親を毒殺したのではないかと疑っている。
 少女のカップを持つ手がカチャカチャと震えている。
 男は、いったん前に置かれたカップに手をつけるふりをしてから、おもむろに少女のものと交換して飲もうと提案する。
 少女は蒼ざめ、絶句するが、それを受け入れる。
 しかし、少女のほうが一枚上手だった。震えていたのは演技であり、彼女は疑われているのを承知で最初から自分のカップのほうに毒を入れておいたのである。
 男は一口お茶を飲み、「このお茶、アーモンドの香りがするね」と呟く。
 少女は、「それ、アーモンド・クッキーのせいだと思うわ」と答え、自分のお茶を一口飲む。
 そこで話は終わるのである。
 ところが、実は私は、これほどまでに気に入っていた『白い家の少女』の映画を、こんにちに至るまで結局一度も観ていないのだった。公開された小学生当時、映画館はまだ盛り場にある大人の娯楽、のイメージがあり、観たいと言ったけれども連れていってもらえなかったのだ(確かに、小学校五年かそこらで観たがる映画が「親を毒殺する美少女の話」では親も許可を渋るであろう)。ジョディ・フォスター自身、この映画をあんまり評価しておらず、この役を気に入っていない、という話を聞いたせいかもしれない。
 幻の『白い家の少女』。この先、観ることがあるかどうか分からないが、あのラスト・シーンが上手に撮られていることを祈るばかりである。

(3)
 さて、偶然かどうか、中学生になり、友達どうしで初めて観に行った映画はブライアン・デ・パルマが撮ったスティーヴン・キングの『キャリー』であった(思えば、『キャリー』の表紙と、『白い家の少女』の表紙を描いた画家は同じ人だった──腺病質な、凄い怖い絵である)。この頃から超能力美少女は珍しくなくなってきたと記憶している。
 そして、同い年の薬師丸ひろ子が『野性の証明』でデビューした。書店に飾ってあった予告ポスターに見惚れたのを今でも覚えている。
 こんなことを言われるのはきっと私が『六番目の小夜子』がいちばんいい、と言われるのと同じで嫌だろうけれども、やっぱり『野性の証明』の薬師丸ひろ子は他の作品にはない異様な雰囲気があり、私にとっては『野性の証明』の薬師丸ひろ子が全てでありベストである。その後もあの面影を求めて彼女の主演作品を観たけれども、残念ながら、結局二度とあんなふうに魅了されることはなかった。
 あれほどヒットした『セーラー服と機関銃』にしても、なんだか奇妙に重苦しい映画で、確かに主人公は星泉であり薬師丸ひろ子なのだが、視点が彼女にはないばかりか彼女の心情が全く伝わってこず、むしろあれは親父の目から見た親父の映画だったとしか思えないのである。
 かように、少女たちの奇跡の時間は短い。実際、肉体的にもはっきりと少女の終わりを自覚させられるし、変貌する自分の身体についていけない。
 私の自説だが、女性作家に吸血鬼ものや超能力者ものの傑作が多いのは、自分がある時期怪物になっていくような恐怖を味わうからだと思う。やおいものが生まれるのも、変貌しない性に憧憬を抱くからだ。
 だからこそ、人はそこに謎を見、神性を見、畏れを抱き、強く惹かれる。 
 それを具体的に形にしたものが、『吉祥天女』である。
 主人公叶小夜子は、おのれの血を呪い、境遇を呪い、かつて女ゆえに味わった屈辱を呪っている。彼女の周りには死が溢れ、彼女は自分の手を汚すことも厭わず、男たちを身体で操ることも躊躇しない。しかし、それでもなお彼女には清々しさと神々しさが漂うのだ。これこそが、私が観る時も書く時も少女たちに求めるものであり、私のイメージする「恐るべき少女たち」である。
 こんにち、映画にもドラマにも「コワイ少女」は溢れているが、そこには神々しさがない。少女でいることの屈辱も痛みもなく、この時期をいかに高く売るかということを本人も周囲も共犯者的に考えている。消費されることを前提に、売り抜けることばかりを念頭に置いているのだ。
 かつての少女たちが最も恐れていたのは、自分の短く最も美しい季節を消費され、摘み取られることだったと思うが、いっぽうで彼女たちは摘み取られた痛みを経て新たに再生する。そこに神々しさがあったのだ。
 大林宣彦の映画『HOUSE』で、少女たちがピアノや池に次々と食べられてしまうのは、そういった痛々しさの象徴なのだろう──その残虐さ、猥雑さを超えて最後に生き残った池上季実子の見せる、清々しく神々しい美しさといったら。
 ううむ、『吉祥天女』の主役は、『HOUSE』撮影当時の池上季実子にやってもらいたかったなあ、と深夜漫画を読み返しつつ一人で呟くのであった。

(2006.06.12)