TOP > web 連載 > 音楽の未来を作曲する > 第14回 ポスト・ワークショップ時代

音楽の未来を作曲する
1 報告譜は創作か?

 野外楽「火の音楽会」を経て、ぼくは「企画譜」と「報告譜」という2種類の楽譜のあり方の着想を得た。「火の音楽会」では、具体的な火での音の出し方、時間の進行、役割分担などを、スタッフと何度も入念に打ち合わせ、「企画譜」を作成した。ところが、実際に「火の音楽会」が実施した後は、報告シンポジウム以外には、特に何もしなかった。全員でプロジェクトの内容を入念に検討し、「報告譜」を作成するなど、考えも及ばなかった。「火の音楽会」を実施した直後ならば、その体験を踏まえて「報告譜」を書くことができたはずだ。「やわらかい楽譜」として書けば、多くの人が再演可能な作品として提示できたかもしれない。しかし、その当時は「やわらかい楽譜」という考えに到っていなかったし、敢えて「報告譜」を書き上げる重要性にも気づいていなかった。それが悔やまれてならない。
 その反省から、ぼくは意識的に何らかの「報告譜」を作成することを企図し、試行錯誤を始めた。例えば、横浜みなとみらいホールで行った「オルガン曲をつくる」では、当初よりワークショップ終了後に、ワークショップで生まれたアイディアを組み合わせて、ぼくが新しいオルガン作品を作曲することに決めていた。ワークショップから3ヶ月後、ぼくは新作「オルガンスープ」(2005)を完成させ、新山恵理さんの演奏で、世界初演された。この作品は、初演後、一人歩きを始める。サントリーホールのランチタイムコンサート、東京芸術劇場でのランチタイムコンサートでも再演され、さらには、弦楽四重奏、ハーモニカや鍵盤ハーモニカ、マリンバなどでも、編曲・演奏されている。
 これなどは3日間のワークショップが、その後も「報告譜」として生き続けた好例だ。手応えを感じたぼくは、その後「ホエールトーン・オペラ」、「べルハモまつり」、「キーボード・コレオグラフィー・コレクション」などで、積極的に「報告譜」を作成し可能性を模索している。
 ぼくが「報告譜」に自覚的になった理由には、映像作家の野村幸弘の影響も大きい。野村幸弘は2001年以来、野村誠の音楽の数多くの現場に立ち合い、それを映像で記録している。彼の映像は、いわば「報告映像」である。かつてのぼくは、「報告映像」を軽視していた。「今」、「ここ」で起こっている生の音楽体験に比べると、映像や音声で記録しても、現場で感じられる音楽の肝心の部分が記録できない、と思っていた。ぼくは、現場至上主義者だった。ところが、野村幸弘の映像に出会い、ぼくは心底驚いた。現場で自分が体験しなかったこと、自分が見逃していたことが、そこにはいっぱい詰まっていたからだ。彼の映像から流れてくるのは、あくまでぼくの音楽なのだが、と同時に全く別の作品でもあった。記録することは、アートだったんだ、と初めて気づいた。
 何が起こるか分からない未来を想定して書く「企画譜」に、想像力・創造力が必要なのは、頷ける。ところが、実際に起こった結果を記述する「報告譜」は、誰がやっても、大差はないと思っていたのかもしれない。ただ単に正確に記録すればいいだけだ、と軽んじていたのかもしれない。いや、全然違う。起こってしまった結果は一通りでも、それは目撃した人によって、全く違った現象として受け止められるのではないか? 芥川龍之介の小説「薮の中」では、同じ事件について7人が微妙に違う証言をし、一体どれが真実かは分からない。同じ音楽体験でも、誰が報告するかで、無限の「報告譜」が生まれるはずだ。そして、作曲家は、そこから創造力を働かせて、「報告譜」をクリエイトすることができるはずだ。

2 ワークショップの可能性

 「報告譜」を思いついたきっかけに、教育系のワークショップの存在もある。「子どもと音楽を作曲する」ことに関心を得たぼくは、積極的に教育分野の人とコンタクトをとり、教育の現場と接点を持つように心がけてきた。もちろん、ぼく自身は、教育自体に関心があるわけではなく、教育現場で行われている現象そのものに関心があった。子どもの行ういたずら、ナンセンスな発言などに、既存の音楽のルールから逸脱するヒントを見つけてきた。しかし、同時に教育関係者の発想や考え方にも、触れることになる。
 教育分野でも、近年「ワークショップ」がブームになってきている。ここで言われる「ワークショップ」とは

(1)予定調和でメソッドを教わるのではなく、その場で柔軟に判断しながら体験・体感していくこと
(2)最終的な仕上がり・結果だけを重視するのではなく、そのプロセスで何かを体験(体感)していくこと

 という2点にフォーカスを当てる体験型の学習、と言い換えてもいいかもしれない。こうしたワークショップでは、最終的な完成形はあまり問題にはされず、どのように考えどのように行動したかという過程こそが重要になる。熊倉敬聡流に言えば、結果を求める資本主義の発想に毒された教育が、脱資本主義的な発想で教育に取り組み始めた、とでも言えようか。
 佐藤南さんという小学校の音楽の先生がいる。佐藤さんは、小学生が主体的に考え創作していくワークショップ型の授業を行っていた。最終的な作品の仕上がり(=結果)を重視するのではなく、子どもたちに自由に作ってもらっているので、芸術性が低いという批判もあるらしい。ところが、実際に子どもたちの作った音楽を聴いて、ぼくは愕然とした。「ソ」と「ラ」の2音だけで構成された「ソラ(=空)の音楽」のカッコよかったこと。カスタネット、タンバリン、トライアングルなどの楽器を工夫した奏法で独自なアンサンブル、カスタネットだけで構成された音楽のユニークだったこと。
 音楽家の片岡祐介さんはかつて、岐阜県音楽療法研究所に勤めていて、数々の音楽療法のセッションを行った。音楽療法学会で発表された彼と自閉症者たちによる即興セッションのビデオを見て、ぼくは驚いた。音楽でボケとツッコミをやっているような音楽漫才とでも呼ぶべきユニークな音楽があった。見ていて、笑いが止まらないのだ。ぼくは、こんなに笑える即興音楽を見たことがない。これは、一体何だろう? もちろん観客を笑わせようとして意図された笑いではない。ただ、片岡さんと自閉症者が、その瞬間を楽しんでいただけなのだ。ぼくは作曲家として、この面白さを楽譜に留めたいと思い、その印象を楽譜化し、「自閉症者の即興音楽」として発表した。まさに「報告譜」だ。
 ここで、ぼくは一つの逆説に辿り着く。

命題: 結果を重視しないワークショップだからこそ、結果が多様で面白くなる

 彼らのワークショップの特徴は、作品の完成度を追求するのではなく、その場をただただ楽しむことだ。そうすると、教師も生徒も、結果の呪縛から解放される。結果なんて気にせずに、伸び伸び発想ができる。その結果、思いも寄らない多様で独自な表現が生まれてくるのではないか? ぼくは、それらを「報告譜」にしたいと思うようになった。ワークショップの楽譜化が必要だ。

3 ポスト・ワークショップ

 ワークショップ・コーディネーターの吉野さつきさん(青山学院大学客員研究員)が、ワークショップのアーカイブ化に関心がある、と言っていた。数多のワークショップの現場に立ち合っている吉野さんも、ワークショップの「報告譜」の必要性を痛切に感じているのだ。吉野さんとは、このことについて、何度か議論をしたことがあり、そんな中から、ぼくらは「ポスト・ワークショップ」という概念を作り上げた。「ポスト・ワークショップ」とは、ワークショップの後に来るもの、という意味の造語で、

ワークショップから生まれた成果のワークショップ後の展開

 を指すとしておこう。そうすると、ワークショップとポスト・ワークショップは、非常に対照的であることが分かる。例えば、以下の3つの軸で、ワークショップとポスト・ワークショップを比較してみよう。つまり、1)目的、2)場、3)時制、の3つだ。

1)目的
1A)ワークショップは、プロセスを重視する
1B)ポスト・ワークショップでは、ワークショップの結果に着目する

 ワークショップは、結果よりもプロセスに重点を置くところが大きな特長で、その場で体験・体感することに重きを置く。そして、逆説的ながら結果に無頓着であるために、無自覚に多様性のある独自な表現が生まれてくる。
 作曲家のヒュー・ナンキヴェルなどは、ワークショップでは、できるだけ短時間で歌を作ったりする。「ちゃんとした曲を作ろう」と思うと、悩んでしまったり、結果に囚われ過ぎて表現に対して臆病になってしまう。とりあえず、短時間でできることを試しにやってみることで、結果に対する呪縛から解放しようとしている。また、参加した人全員から、歌詞の言葉を集めたりする。最終的な作品の仕上がりというよりも、まず、その場にいた人全員が歌作りに参加しているということにウエイトを置く。そして、そのように結果を意識しすぎずに、プロセスにウエイトを置く結果、魅力的な作品が生まれてくる。
 一方、ポスト・ワークショップは、ワークショップと相補的な関係にあり、ワークショップで見逃されがちであった結果(作品)にフォーカスを当て、それを作品やプロジェクトなどとして、展開させることを目指す。ワークショップの当事者は、成果には価値を置いていないことが多い。稚拙な内輪のお楽しみ以上ではないと思っている。ポスト・ワークショップでは、その場限りで忘れられてしまいかねないワークショップの結果から、作品やプロジェクトを抽出する。

2)場
2A)ワークショップは、少人数の定員を設けた閉じた場であることが多い。外部の目に必要以上にさらされない環境を作ることで、参加者が安心して表現できる場を用意する。
2B)ポスト・ワークショップは、ワークショップという閉じた場で生まれた表現を、外の世界に開いていく活動である。

 ワークショップは、参加者の表現の場を保証するところが特長で、少人数で行うことで、参加者一人ひとりの表現が尊重され、誰もが能動的に活動に参加できることを目指す。これ自体は、非常に効果的だと思う。ところが、その結果、ワークショップは、ごく少人数の閉じたコミュニティで自己完結してしまう危険性もある。その場にいた人には面白いが、その場にいない人と共有が難しいのだ。ガムラングループ「マルガサリ」と譜面を使わずに共同創作した「桃太郎」が、閉じたグループの音楽になる危険性をはらんでいたのも、同じ理由による。そこで、ポスト・ワークショップでは、閉じた場で生まれた表現を自己完結させずに、その場にいなかった人とシェアーしていく方法を模索する。
 例えば、「ホエールトーン・オペラ」は、15名程度のワークショップの中から生まれてきた作品で、これを「やわらかい楽譜」として楽譜化しなければ、その場限りの音楽になっていただろう。ところが、「ホエールトーン・オペラ」の楽譜集を作成したことで、「ホエールトーン・オペラ」の様々な解釈が始まり、子どもが演じる「ホエールトーン・オペラ」、「ホエールトーン・オペラ」に基づく即興演奏、「ホエールトーン・オペラ」の魔女の呪文をベースに、幼稚園児が劇を展開など、様々な展開を見せている。
 ぼくは、福岡市美術館に展示されている絵を題材に作曲をするワークショップを開催する予定だ。ワークショップの参加者は、1日10名が定員で、3日合計でも30名である。この30名とディープに時間を過ごすわけだが、ポスト・ワークショップとして、ワークショップでできた音楽を、野村がピアノ曲にする。約20曲から成る組曲「福岡市美術館」の楽譜は、展示室の絵の前に置かれ、美術館の観客が自由に持ち帰れるようになっている。持ち帰った人は、その曲を自分でピアノで弾いてみるかもしれない。自分でピアノが弾けないから、ピアノの弾ける友人に頼むかもしれない。ピアノでその曲を弾いてみた人は、その譜面の題材になった絵がどんな絵であったか見たくなって、美術館に足を運ぶかもしれない。ピアノの先生が、レッスンでその曲を教材にするかもしれない。ワークショップで30人と過ごした結果生まれたアイディアを、ポスト・ワークショップでは、不特定多数の人に開いていく。

3)時制
3A)ワークショップは、現在形の活動である。
3B)ポスト・ワークショップは、未来形の活動である。

 ワークショップは、その場で起こっていることにフォーカスする現在形の活動である。一方、ポスト・ワークショップは、ワークショップで生まれた結果をどう展開させるかを追求する未来形の活動である。

4 ポスト・ワークショップ時代

 吉野さんとぼくは、2004年から5年間、エイブルアート・オンステージ(明治安田生命とエイブル・アート・ジャパンの共同主催)の実行委員を務めた。今から思うと、エイブルアート・オンステージでぼくが模索していたのは、ワークショップを経た上で、ポスト・ワークショップとして舞台作品を作るというプロジェクトだったと思う。毎年約8団体、5年間で40近い団体を支援したが、いずれのグループにも

1)ワークショップを行うこと
2)舞台作品を発表すること

 の二つが必須のプログラムだった。ワークショップの問題点を、ポスト・ワークショップで補い、舞台として展開するという理屈だ。実際にいくつもの実践例に立ち合ってみて感じたことは、ワークショップとポスト・ワークショップは全く別のことだと切り離して考えた方がいいということだ。
 例えば、ワークショップのプロセスを見事に進行(演出)できるファシリテーターという人達がいる。ところが、ワークショップ・ファシリテーターは、結果を度外視してプロセスを演出することにおいて力量を発揮するのであって、ポスト・ワークショップの専門家ではない。逆に、舞台作品を作る専門家は、作品を作る専門家なので、ワークショップを行う専門家ではない。その場を楽しむことやプロセスよりも、作品を構築することにこそ重きを置く。ワークショップのファシリテーターとポスト・ワークショップのディレクターでは、行う仕事が全く違う。もちろん、ワークショップにもポスト・ワークショップにも才能を発揮する逸材もいるが、この二つは分業として分けてしまう方がいいケースが圧倒的に多いようだ。
 後で作品化することを意識しながら、ワークショップをしていても、ワークショップの本領発揮とはいかない。ワークショップの良さは、最終的な成果や結果に無頓着なこと、徹底したプロセス重視、刹那的にその場を楽しむことにあるはずで、ポスト・ワークショップを意識してワークショップを行うと、ワークショップ自体の良さが失われてしまう危険性がある。
 ポスト・ワークショップの存在があることで、以前にも増して、ワークショップを楽しめるようになった。つまり、ぼく自身がワークショップを行う時には、結果や未来を一切意識しないで、その場(現在)を楽しむことに専念すればいい、と開き直ることができたのだ。そうすれば、必然的に多様性や独自性が立ち上がるし、それが立ち上がれば、あとはポスト・ワークショップの仕事だからだ。

創造=ワークショップ+ポスト・ワークショップ

 この公式は、音楽の未来を考える上で、芸術の未来を考える上で、さらには、世界の未来を考える上で、大きな意義ある公式になるだろう。ぼくたちは、ポスト・ワークショップ時代に突入し、これから様々なポスト・ワークショップの試みが行われていくだろう。

注:ワークショップがどんなに大成功だったとしても、ワークショップの記録が不十分だと、ポスト・ワークショップが成立しないことがある。録音や映像の質が極端に悪かったりすると、ポスト・ワークショップのための手がかりの情報量が少なすぎてしまうのだ。
(次回へ続く)

2009.8.14 update