第7回 ル・コルビュジェの集合住宅──マルセイユ
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マルセイユ駅からアラビア風敷物の店の並ぶ坂道を下って、洒落た市街電車の走る大通りを渡り、旧港の波止場に出ると、大きなカモメが屋台の魚屋を狙って飛び交っている。巨大な蛸がバットの中で伸びている。
沖合のイフ島にアレクサンドル・デュマ作『モンテ・クリスト伯』の主人公エドモン・ダンテスが、恋敵の陰謀で無実の政治犯にさせられ、投獄された監獄のモデルがある。隣の独房の老囚人ファリア神父が死期を迎えたとき、ダンテスは大財宝の隠匿されたモンテ・クリスト島の暗号図を彼から受け継いだ。神父になりすまして死体袋に入れられ、監獄の外に運び出されるが、予期に反して墓穴ではなく断崖の上から海へ投げ落とされる。その瞬間、ダンテスは思わず叫び声を上げる。遊覧船のデッキに立って港を囲む街並を振り返ると、海の中に沈みゆく栄光の都市の映像に見える。
それでも街はずれに新しい大聖堂が建設中で、クレーンが林立している。岩の島も旧監獄も想像していたものより小さく低く、崖の上から死体を放り投げてもすぐ海に落ちる高さだった。小説の中で想像した場所や建物のモデルを訪ねると、現実はいつも小さく、狭いものだ。想像力は大きく、広い。人物の場合はどうだろうか。
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夕方マルセイユ郊外の海浜公園にある現代美術館に行こうとタクシーに乗り、インフォメーションでもらった観光市内地図を眺めていると、美術館の北の方にル・コルビュジェの集合住宅(ユニテ・ダビタシオン)と書いた地点があるのを見つけた。両方を見る時間はない。急きょ行き先を変えてショファ(運転者)に告げた。別荘のような白い郊外住宅の並ぶ通りを走り、大通りから木立の中にそれて停まると、目の前に巨大なコンクリートの脚が見えた。タクシーを降りると、とほうもない厚さのコンクリートの重力に圧倒されて、思わず「オォォ」と叫び声を上げた。
ル・コルビュジェの大ピロティだ。八の字形のコンクリート打ち放しの巨大な支柱が中央にトンネルを形成して並び、見上げると、直方体の大アパートがその上に乗っていた。現代のノアの箱舟だ。
「この中には劇場もレストランも図書館もあって。これだけで一つの町なんです」
とタクシーのショファが眼を丸くして力説した。「教会も」といわなかったのは幸いだった。
今まで建築物の前というか下に立って、これほど畏怖の念に打たれたことはない。その強烈な自己主張、自己の理念に対する絶対の自信、それを実現しおおせた執念。それが建築芸術のパワーというものか。ニューヨークのエンパイア・ステート・ビルの均整をめでた。倒壊するまえのトレード・センター・ビルは巨大な駐車場棟に見えた。ミシガン湖畔に林立するシカゴ建築群の重量感に感嘆した。ドバイや上海の世界最高のビルは拝んでいない。フランク・ゲーリー設計のビルバオ・グッゲンハイム美術館は写真で鑑賞しただけだ。チタン製の華麗な現代生け花建築よりも、鈍重な拡大マッチ箱の形体に固執し、そこに1600人もの人間を住まわせた建築家の意志に感服した。これが近代集合住宅のモデルになったというが、その末流がかつて日本の市民の憧れの的であった公団住宅であると思うと、そのつつましさに当時の建築思想と経済力の落差を思い知らされた。戦後のフランスと日本の国力、行政と建築思想の力の違いであったのだろう。それにしてももっと大きな大聖堂、華麗な宮殿、モダンなオフィスビルもあるのに、なにが建築のダイナミックスをこれほど圧倒的に感じさせるのだろうか。
やはり地球の重力に逆らって巨大な重量物を建築家の力で地上に持ち上げ、マンモス像よろしくコンクリートの脚で支え続けている力持ちの姿である。ピロティの部分を地下に埋めるか地上に立ち上げるかの違いで、それほど利用価値があるわけではなく、建物の反対側の風景が見え、その下を横切ることができる空間の連続があるのだが、こうと思想が固まったら万難を排してそれを実現するという意志と実行力に感嘆させられるのだ。
(3)
偉大な芸術が後世までも残るのは、美の様式のためではなく意志の力、神ではなく人間の力の実現が、建築物のように高く長く存続する姿ではないか。消えゆくメディアで過ぎ去る時間の断片を表現しようとする現代アートの反対物の、アテネのパルテノン神殿にも匹敵する、人間の住まいの記念物に感動したのかもしれない。神のすみかには神の姿は見えないが、人間の住居には1600人もの市民が共同生活をしている。ここには観光客はいない。築山の小径からときおり人が下って、暗いガラス張りのエントランスに入っていく。地面から二階へ直接上る非常口らしいコンクリートの階段を昇る人もいない。周囲をぐるりと廻ると、角に建物の規模にしては小さな管理人室があり、ガラス壁越しに書類と無線電話機が二台充電器に立ったデスクと肘掛椅子、壁に取りつけた黄色い箱に鍵が30本、緑十字のついた白い救急箱、その奥に大きな配電板が見える。打ち放しのコンクリートの柱も壁も天井も一部が欠けたり、黒ずんだり、染みがついている。明るいモダンな構造物を見慣れた目には年代物のデザインの遺物に見える。
ここに住む人たちは幸せだろうか。大建築家の5原則、ピロティ、屋上庭園、自由な平面、水平連続窓、自由なファサードの理念を恭しく信奉し、少々天井が低く狭いながらも「垂直田園都市」の歴史的建築思想を誇りに思い、共同生活の模範を守って暮らしているのだろうか。本来は労働者住宅のはずだったのに、「億万長者のマンション」が建ってしまったといわれたそうだが、今や世界最初の共同社会住宅としての歴史的記念物を静かに維持し、生活しているのだろうか。
コンクリートの構造体とは自由の、全面ガラス窓に囲まれた共同居住空間は、巨大な牢獄とは見えないが、住居の思想を革命的に変えたのだ。強制的にコミュニティ空間を構 成し、火(暖炉)を一家の象徴的な単位(ユニテ)として、上下左右に連続する住居を細胞組織のように作った。これが実現するまでに所轄省庁が10も変わり、7人の大臣が就任したという。マルセイユ市民は当初この計画に「狂人館」とあだ名をつけたという。現代人は今や狂人になろうとしているのか。集合アートの実現者は知事と市長を兼ね備えるほどの力量が必要だ。小さな人間は屋上に飛び上がることもできず、ユニテ・アビタシオンの周囲を犬のように巡り歩いた。
フランス人は身体のサイズに合った衣装のようなデザインで街を造り、飾る。上から押しつけるのではなく、茶目でにっこりする。彫像のある長い石段を上がって頂上に達すると、町を遠望するマルセイユ駅がある。中東、アジア、アフリカ、アメリカとの出入り口である港町の駅はブティック通りのように洒落ている。マスクをつけた警察犬を従えた警官が不法移民や麻薬の流入に目を光らせているが、広い構内には並木があり、優雅な照明灯や案内ボードやイメージのような大時計が空中に浮かんで、孤独な旅行者の不安を解いてくれる。TGVがしずしずと戦車のようにターミナルに入ってくる。デザインは広告や制度ではなく、花屋や化粧品棚や美容院のようであってほしい。