第2回 イギリス、ケント州のバーバラ
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イングランドの西、デヴォン州の丘にある蔦に覆われた古城のような農業学校の建物で開かれたサマースクールに参加したことがある。夏休で学生のいなくなった寮に2週間泊まって講義やセミナーに参加し、週末は近隣のヒースの丘をドライヴしたりエクセターの町に観劇にいったり、夜は有志のピアノリサイタルや詩の朗読を楽しむ。さまざまな年齢の中流の男女が中心だが、ワーキングクラスの人たちもいた。私はジョイスの『ユリシーズ』を読むクラスに入ったが、チューターのほかは男性は私一人で、イギリスの中年の女性たちは慎ましやかにしているが、私は秘かな好奇心に囲まれていたらしい。バーバラという病院勤務の女性が近所の仲良しの奥さんときていた。文学と音楽を愛し、夫は北アイルランド出身の発電所の技師だった。夫たちは参加せず、娘たちと近所のインに泊まってドライヴを楽しんでいた。週末は夫たちと合流して田舎のトビー・アンド・ジャッグという宿屋のパブに連れていってくれた。周囲に家もなく、真っ暗なヒースの丘に欠けた月がひとつ空にあった。赤い雄鶏の看板が軒下にかかって明りが灯っていた。
八月といってもデヴォンの夜は寒い。暖炉に赤赤と燃える薪に目を細めて大きなグレイハウンドが主のように横たわっていた。赤い炎に顔を染めてバーバラの夫がしゃがれ声で言葉少なに話すと、日本人のようだった。
「日本はヴィクトリア朝と同じことをやっている。ああいうことをやっていると、いまにイギリスと同じように没落するぞ」と渋い声で戒めるようにいった。ギネスが喉に沁みた。第一次オイルショックのあとだった。
「日本人は器用で勤勉だから、なんとかしのいでまた復活しますよ」といってにやりとすると、
「笑いごとじゃないぞ、わたしは真剣に忠告しているのだ」と声をあらためていった。
それから40年、私はその言葉を忘れたことがない。
バーバラが小さな声で、
「ひとつ心にかかっていることがあるの。それはファントムなの。夫がいずれ定年を迎えるの」といった。
(2)
バーバラの仲良しの奥さんはその後乳癌になり、手術を受けたが数年後に再発し、やがて亡くなった。妻を愛していた夫は傷心のあまり精神が壊れ、植物人間になって亡くなった。バーバラの夫も癌でなくなった。孤独になったバーバラはその後、レコード鑑賞のサークルで一緒だった八十歳の老紳士と再婚して幸せになり、ヨーロッパをあちこち旅行して楽しんだ。元大学教師だった夫には息子がいて、テレビ映画の監督をしていたが、その後劇映画の監督もして有名になった。同性愛の司祭の苦悩と慈愛を描いた問題作で、賞をもらった。バーバラも愛したその息子はその後難病に罹り、惜しまれて亡くなった。
バーバラはドーヴァー海峡に面したウェルマーという古い町で生まれた。再びひとりになったバーバラは自分もあちこち身体に問題ができ、年に一度長い手紙を小さい活字体文字で書いて病名を一つ一つ丁寧に説明してくれたが、それは普通の英和辞典には載っていない単語で、病院の事務長をしていたから病気を正確に説明する習慣が身についていたのだ。バーバラはウェルマーの小学生のころ、ほのかに心を寄せていたクラスメートがいた。彼も妻を亡くし、子供たちは独立して、今はひとりで暮らしていることを知った。二人は初恋を全うし、助け合って余生を送ろうと再婚した。小さい花壇のある煉瓦造りの家を新築し、生まれ故郷の友人や隣人たちに囲まれ、相変わらず音楽と文学のサークルの世話をし、ともに病気を抱えながらも平穏な日々を送り始めた。
チャリング・クロス駅から急行で2時間、小雨の降る九月、生け垣のある長いウェルマーのプラットホームにバーバラはピンクの傘をさしてひとりで立っていた。彼女の運転する車で表通りから私道に入ると数軒の新築の家があって、それがバーバラ夫妻の住居のある一画だった。小さい花壇にマリーゴールドの株が不揃いに植えてあった。
「あたしは園芸はだめなの」とバーバラは言い訳した。
玄関に迎えてくれた夫のデイヴィッドは赤ら顔の中背の好人物で、
「あなたのことはたくさんバーバラから聞いています」といって手を差し出した。
バーバラが転げ落ちて手首の骨を折ったという階段が玄関から真っ直ぐ二階に伸びて、厚いカーペットを敷き詰めてあるが、
「上の踊り段からまっすぐ転がり落ちて、玄関のこの低い戸棚にぶつかって止まったのよ」とバーバラは説明した。
(3)
その午後はウェルマーの町と、大陸からの襲来に備えた要塞の砲台や博物館、庭園を観光した。この沿岸は紀元前55年と54年にカエサルがローマ軍艦を率いて上陸を試みた歴史的な地域である。翌朝は近くの古い町、ディールを案内してくれた。石造りの家はよく手入れして塗装も新しく、遊園地の街のように汚れがない。道路わきの古い共同ポンプ、色違いの自然石をタイル代わりに貼って模様にした壁。海辺の広場に海老、蟹、牡蠣を焼いて売る車つき屋台があった。子供たちがテーブルの上のヴィネガーやドレッシングのビンをおもしろがっている。雨まじりの風の吹く海岸のレストランの窓際の席で、バーバラとコーヒーを飲んだ。土色の海に白波が立つのを眺め、バーバラの臙脂色のウールの帽子の縁から白い髪が覗いているのを見た。
家に戻るとデイヴィッドがワイシャツ姿でコックを務め、サラダと肉の昼食のサーヴィスをしてくれた。
デヴォンで会ってから10年後にも、バーバラはチューターのドッド博士とゴーダーズグリーンで会えるようにアレンジしてくれた。近くのパブで大学の職員のジョイシアンと3人でギネスを飲みながら、『フィネガンズ・ウェイク』を1ページ読んだ。ロンドン大学のジョイス学者のマックヒュー教授にもアポイントメントを取ってくれた。教授は遺伝学を研究していたが、猩々蝿を飼育していると、卵が孵化するまでは暇なのでジョイスの語彙を研究することが出来たと話してくれた。私の文学論を本にするとき、バーバラは亡くなったドッド博士への英文の献辞を考えてくれた。義理の息子の映画監督にも会わしてくれた。
丸っこい小さな活字体の長い手紙が来るのは年に一度、クリスマスカードが送られてくるときになっていたが、内容は旅行ではなく、音楽と文学のサークルと、夫婦の病気の報告がおもになっていた。去年の4月ロンドンから電話すると、デイヴィッドが電話口に出て、
「いまバーバラが二階からきます。いま踊り段にいます。いま階段を降りています。いま降りました。いま出ます」と、バーバラが手摺につかまりながら二階の寝室からゆっくり電話口まで降りてくる間を取り持ってくれた。
バーバラの声は少し弱くなったが、ウェルマーの町の友人や隣人に囲まれ、みなに親切にしてもらって幸せだとなんども話した。
去年の暮、初めてバーバラからクリスマスカードがこなかった。心配していると、今年の3月に短い手紙がきた。バーバラの字ではなかった。
「悲しい知らせをお伝えします。バーバラはこの前の水曜日の朝亡くなりました。最後の数週間はほとんどなにもできなくなっていました。バーバラのように教養のある女が惚けてしまうのを見るのはとてもつらいことです。バーバラはあなたのことをとても敬っていました。長年のあなたの友情と親切に感謝します」
デイヴィッドの判読がむずかしい簡略なペン字も、なんども眺めているうちに、わずかな線の間から意味のとおる単語が浮かび上がってきた。