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世界で会った人

 

第8回 タオス、ホテル・ラ・フォンダのマダム

 

(1)

ホテル・ラ・フォンダ/タオス/ニューメキシコ

ホテル・ラ・フォンダ/タオス/ニューメキシコ

アメリカを廻っているうちに旅慣れてきて、バス・ターミナルの公衆電話から空港に電話し、名前をいってフライトの席を予約し、そこへリムジンで迎えにきてもらうと、バスのように気軽に空港の地面を歩いて飛行機のタラップを上がれるようになった。
ニューメキシコはアメリカで唯一もういちど訪れてみたいと思う州であろう。アルバカーキ空港は世界でもっとも美しい眺めの高原にあるのではないか。晴天の夕方、エア・ターミナルからタクシー乗り場に出ると、西方に高く金色の水平線が見え、その下方は黒い砂の影、上方は群青の空。そこが砂漠の切れ目なのだ。アメリカの抽象絵画がどこから出てきたかが分った。ヨーロッパのアブストラクトは大理石の模様から出てきたのだと思っている。遥か下方にはアルバカーキの市街が広がり、やがて点々と明かりが灯り始める。町中の、ドアに鍵もかからないドライヴインからニューヨークのみな子に電話すると、
「いまどこにいらっしゃるの」
「ニューメキシコ」
「うわー、妬けちゃうなあ。ニューメキシコの匂いがするなあ」と、隣の部屋からのように明るい声が東海岸から飛んできた。
翌朝レンタカーを走らせ、途中で若者のヒッチハイカーを拾うと、
「あなたはインディアンか」と訊いてきた。
「ノー、ジャパニーズだ」と答えると、言い訳のように、
「ジャパニーズとエスキモーとインディアンは太平洋岸でずっとつながって同じ血が流れているんだ」と説明した。コネチカット大学のデザイン科の学生だというのだが、「コネチカット」の短い一語の発音が聞き取れなくて3度も聞き返した。
サンタ・フェからさらにタオスに向かって灰色の砂漠を走ると、セージの株が点々とあり、遠くにリオ・グランデ河が黒い筋になって見えた。遥か彼方に小富士山の形をした地卓(メサ)がいくつも見えた。もと鉱山だった小さな町がいまはゴースト・タウンで、観光用に開いている鉱山事務所には、さも先程までタイプライターを打っていたかのように机の上に書類が散らばっていた。ひとりで番をしている初老の男は、昔海軍で沖縄にいったことがあるといった。
燦々と降り注ぐ真昼の太陽の光を浴びて、映画のセットのように並ぶ三角屋根の住宅は、造り立ての郊外住宅のようにくっきりと青空に浮かび、人も車もいない中央通リを一人歩いていると、突然風が吹いて空き缶がカラカラと乾いた音を立てて転がった。ぞっとして振り返った。白昼の道路にはだれもいなかった。

 

(2)

プエブロ・インディアンのアドービハウス/タオス/ニューメキシコ

プエブロ・インディアンのアドービハウス/タオス/ニューメキシコ

D. H. ロレンスがメイベル・ドッジ・スターンに招かれて、1922年、妻のフリーダとイギリスから移住したランチ(牧場)がタオスの丘の上にあり、そこに泊まるのが目的だった。
タオスの町に入ると中央の木陰のあるプラザからメキシカンのマリアッチが演奏するギターとフルートの音が聞こえてきた。町の彼方には赤味がかった地肌を見せるサングレ・デ・クリスト(キリストの血)と呼ばれる山脈が連なっている。先住民プエブロ・インディアンの土地の神と、スペインからメキシコを渡って北米南部に浸透してきたカトリックが混じって、土地に名前をつけ、アドービ(日干し)煉瓦のキリスト教会を建てた。南の太陽に温もった赤灰色の大地と、丘の松林から下りるてくる松風に包まれ、静謐ながらも人間の血を掻き立て、形あるものを造らせる地気が潜んでいるようだった。
原子爆弾を発明し推進したロバート・オッペンハイマーは少年の頃、内気なために学校でいじめに会い、18歳のとき、彼が師と仰いだ英語の教師ハーバート・スミスに連れられて、スミスの親友で、ニューメキシコに住む正真正銘のWASP(White Anglo Saxon Protestant)の家を訪ねた。オッペンハイマーは自分がユダヤ人であることを危惧して、自分をスミスの弟にしてもらった。しかしそこで非ユダヤ人のキリスト教徒たちにとけ込み、ニューメキシコの人と風土はオッペンハイマーの試金石となった。やがてその州のロス・アラモスにマンハッタン計画の主要研究所が置かれることになった起源が、オッペンハイマーのこの土地への愛着であったとは、不思議な運命の巡り合わせである。
タオスにはアメリカの写真の父といわれるスティーグリッツの妻になったジョージア・オキーフが、1940年にアトリエを造って住んだ。自然の性を堂々と抽象化する彼女の大らかな造形は、ヨーロッパの継承ではない、純粋にアメリカの自然から生まれた抽象である。
プラザの正面にあるホテル・ラ・フォンダには、ロレンスの禁断の裸体画が展示されていると知っていた。入り口を入ると広いホールの隅に暖炉があり、革のクッションを置いたソファと肘掛け椅子、鉄格子の扉の中にキリストの磔刑像のレリーフ、壁には土地の画家の人物や動物や風景の絵が天井近くまで飾られ、東洋の司祭のような黒い筒型の帽子を被った黒いドレスの老婦人が迎えてくれた。

 

(3)

キリスト教会/タオス/ニューメキシコ

キリスト教会/タオス/ニューメキシコ

「わたしはギリシァ人です。85歳です」といって私に肘掛け椅子を勧め、自分も隣の肘掛け椅子に座った。「ロレンスはよくここへ友人ときて、宴会を開いたりしたものです」
婦人はこの土地に住んでいた醜いユダヤ人の話を始めた。私は身を傾けて、小柄の老婦人がギリシァ語なまりの西部の英語をクラシックに発音するのを聞き取ろうと耳を澄まし、神経を集中して単語を一つ一つ追ったが、話の半分しか辿ることができなかった。
「その小柄で醜い男性は皆から忌み嫌われて、だれも近づこうとする人はいなかったのです。その人は友だちがいなくて、家族もいませんでした。それで話し相手を求めて、よくここへ来ては、わたしにユダヤの掟の話をし、自分の幼少の頃や、両親や兄弟の話をし、自分が教えていた小学校の子供たち、教会に集まる家族の結婚や子供の誕生や、病人の話をし、またタオスの家の辺りにくるいろいろな鳥や動物の話をしました。あるときこの町へどこからか一人の浮浪者がやってきました。一日中広場の木陰に座っていると、旅行者でお金を投げていく人もいましたが、町の人たちはだれも相手にしませんでした。そういう放浪者がときにこの町にやってくることがあるのです。するとこのユダヤ人はその浮浪者に食べ物を与え、夜は自分の家に連れていって納屋に寝かせ、お腹が痛むというと医者に診せ、それは親切に面倒を見てやったのです。そのうちふとその浮浪者はこの町から姿を消してしまいました。わたしはこの醜いユダヤ人、町のみんなに嫌われ、除け者にされていたユダヤ人がほんとうはとても心の優しい人だと分かり、そのユダヤ人を見直して、わたしも親切にして上げることにしたのです。人間は外観で、その本当の人柄を判断してはいけないということを学びました」
老婦人は事務室の鍵のかかった扉を開けて、ロレンスが先住民を描いた数点の大きな裸体画を観せてくれた。浅黒い硬質な肉体に、動物のように自然な性器がくっきりと、野の花のように描いてあった。帰り際に、老婦人はホテルの絵葉書と、ホテルのピンクの便箋と封筒を何枚かくれた。
絵葉書の裏には名前と住所が黒インクで書いてあったので、長年それはだれかが婦人宛にくれた絵葉書だと思っていた。ホテル・ラ・フォンダの歴史を調べてみると、1922年創業者夫婦は5歳の息子を連れてギリシァからニューメキシコにきたと書いてあった。絵葉書の暖炉の脇に立っている支配人らしい初老の男性はその息子だろう。その隣の肘掛け椅子に座っているギリシァ風の黒い衣装の老婦人はその息子の母親であろう。絵葉書の裏に黒インクで書いてあった名前はまさに創業者の妻の名で、
「心をこめて ノウラ カラヴァス タオス ニュー メキシコ」
とあるのは私宛の献辞であることが分かった。