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マリー・クヮントとミニスカート革命

マリー・クヮントは20世紀ファッションの革新者である。彼女の発信したミニスカートは服装史上まれに見る大ブームを引き起こしただけでなく、女性のふるまい方や考え方に深い影響を及ぼした。しかもそれは欧米諸国にとどまらず、ほぼ同時期に日本も含めた世界中に普及していく。時間的・場所的にこれほど爆発的に広がった流行現象はおそらく後にも先にも例がないだろう。
もともとミニスカートは50年代後半にロンドンの少女たちが身につけていたスタイル、いわばストリート・ファッションだった。当時新進デザイナーとして活動していたマリー・クヮントはそれを商品化して売り出したのである。55年に彼女と公私にわたるパートナー、アレキサンダー・プランケット・グリーン、アーチー・マクネアがキングス・ロードにオープンしたブティック〈バザー〉は、最先端のチェルシー地区で遊ぶ若者たちのたまり場であり、流行の発信源となっていた。
60年代、ロンドンは「スウィンギング・シックスティーズ」などといわれる若者文化の震源地となっていく。戦後、若者たちは既成の社会規範に反抗し、英国の伝統や階級文化の桎梏から逃れて、アメリカ大衆文化の影響下に、自由で解放的な表現を作りあげた。彼らはロック、映画、演劇、ファッション、デザインなどの分野に新風を吹き込み、大きなムーブメントを引き起こしたのである。その中からビートルズ、ローリング・ストーンズといったミュージシャン、マイケル・ケイン、テレンス・スタンプなどの俳優、デイヴィッド・ベイリーやブランアン・ダフィーらの写真家、ジーン・シュリンプトン、ツイッギーらのファッションモデルなど、きら星のごとくスターが誕生し、世界に進出していく。
50年代のファッションは大人主導であり、豊満な肉体や上品なエレガンスの美学がよしとされていた。しかし、60年代の若い女性たちはそんな価値観を嫌い、時代にあわせて躍動したい気持ち、未成熟な少女らしさ、自分のからだや欲望を肯定するスタイルとしてミニスカートを支持したのだ。それはやがて女性を束縛してきた男性中心社会への反抗のメッセージとなっていく。
ミニスカートはスウィンギング・シックスティーズの波とともに世界を席巻する。日本でのブームは67年にツイッギーが来日することによりピークに達している。

時代をスタイリングする

ファッションデザイナーは時代の欲望を敏感に察知し、それに形を与えていくことが重要な仕事である。マリー・クヮントが作りだそうとしたのも新しい時代を生きる女性たちのスタイルだった。
1934年に生まれたクヮントは教師であった両親の勧めに従って、美術教員となるためロンドン南東部にあるゴールドスミス・カレッジに進学する。ゴールドスミスは当時コミュニティカレッジとして職業訓練校のような役割を担っており、クヮントはここで美術や洋裁を学んでいる。
クヮントは街の帽子屋で働きはじめ、自分でも帽子や服を作るようになっていく。そこで自信をつけた彼女は〈バザー〉をオープン、彼女の服は若者たちから絶大な人気を呼んだのであった。
クヮントのデザインはシンプルでジオメトリカルなラインを特徴としている。それは不必要な装飾を排して、女性の身体をすっきりした直線へと造形するものだ。ビニールや化学繊維などの新素材をいち早く取りいれるなど、新しいデザインにも意欲的に取り組んでいる。
彼女はずば抜けた技術や潤沢な資本はなかったが、若い女性として時代が求めているものを敏感に察知し、自分の身体を通してスタイルに仕立て上げることに長けていた。
クヮントは時代のアイコンとして自分を演出した。ミニスカートを身につけ、髪型も友人ヴィダル・サスーンによるショートボブがトレードマーク。サスーンはヘアースプレーで盛り上げた50年代風髪型(砲弾=ボムシェルと呼ばれた)を嫌って、頭をさっと動かしただけでスタイリングができる軽快なボブカットを次々に考案、ヘアスタイル界に革命を引き起こしていた。さらにアイシャドウやつけまつげを強調するメイクも好み、化粧品に乗り出すなど、60年代女性の欲しいものをライフスタイルへと昇華させたのだ。
こうして見ると、クヮントは60年代版のココ・シャネルともいえる。シャネルもコルセットをするような旧弊な美意識に反抗し、活動的なモダンガールのスタイルを自ら身につけ、新しい時代を体現した女性だった。その意味では、ミニスカートが流行したとき、シャネルが「女性のひざは美しくないので、出すべきではない」と強く抵抗したのは、いささか皮肉なエピソードかもしれない。

アパレルデザイナーの先駆者

クヮントとシャネルの大きな違いは、だれに向けてデザインしていたかということにある。シャネルの顧客が上流階級の富裕な大人女性であったのに対し、クヮントは最初から一般の若い女性のために服作りをしていたのだ。60年代初頭、彼女は既製服のための会社ジンジャー・グループを設立しているが、アメリカのアパレル・メーカー、JCペニー社やピューリタン・ファッションズ社とも手を組んで、既製服デザインを提供するなど、当初から量産化時代を意識していた。
60年代まで洋服は洋裁屋に注文したり自作したりするオーダーメイドが主流であり、既製服は一般に粗悪品と見なされていた。しかし若者世代の台頭によるヤングマーケットの出現に加えて、技術発展による質的向上がはかられ、既製服産業が急成長していく。
クヮントの直線的なデザイン、ミニスカートのようなシンプルなドレスは、まだ発展途上にあった既製服生産に適していたといえよう。彼女は離陸しようとしていた既製服産業の舵取り役の一人となったのである。
当初ミニスカートを批判していたパリの高級注文服業界も、やがてミニを作るようになる。それはモードの世界に世代交代がおこったことを意味していた。
クヮントは既製服時代のデザイナーの先駆者であった。彼女の後を追うように、バーバラ・フラニッキ、マリオン・フォール&サリー・タフィン、オジー・クラークといった、美術学校を出てすぐに自分たちの服を売り始めるデザイナー起業家たちが登場する。彼らは自分たちの感性の表現手段として服作りに可能性を見いだした。自分たちで着たいものを作り、自分たちのやり方で発信する。そんな現代的なファッションデザイナーの先鞭をつけたのがマリー・クヮントだったのである。

 

 

マリー・クヮント著 野沢佳織訳
A5変型 368頁
2730円(本体2600円)
978-4-7949-6836-4 C0077 〔2013年〕
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